遥かなる銀河を越えて

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遥かなる銀河を越えて

 

1.新たなる旅立ち

 

この地には風がない。まだ、風を受けた思いはない。風を感じると、故郷への思いが更に強くなるのだろうか、遥かなる故郷の思いに深く沈み込んでしまうのだろうか。それでもいい。風が恋しい。

雲は厚く、動くことをしない。時を忘れたように、重く空に横たわっている。星を隠し、月をも隠し、光さえも隠している。静けさが、闇にどこまでも引き込まれていく。

そんな闇をわたしは歩いていた。踏みしめる細かな砂が、ひとつひとつの歩みに柔らかく絡む。さらさらとした感触が心地よい。わたしという存在を、闇を進むわたしに強く知らしめてくれている。進む毎に、それが軽く弾けるような音がする。ほんの小さな空気の振動が、ちらりと舞う。細胞の一欠片が破裂したような思いが揺れる。わたしという存在をはっきりと意識する…。

見渡す限り何もない。重い闇が、この地のすべてを包み込んでいる。わたしも闇の一部に溶けてしまっている。瞬間の思いすら、それへと引かれ消えていく。まるで底なしの闇だ。しかし、闇への恐怖をわたしは不思議と感じていない。故郷への思いの裏に、それは隠れてしまっているのか、わたしを覆う闇に激しい圧力は感じない。

しばらく闇を進んだ。風を微かに感じ始めた。遠くの雲が少し動くのが見えた。闇の彼方に一筋の明かりが漏れる。一条の帯がしとしとと、時を緩めた清水の流れのようにゆるりと流れ落ちていく。この地で見る始めての動きだ。その明かりの落ち行く先が少し盛り上がっている。遥かなる地平線に、その部分だけが曲線を描いている。微かな明かりが精一杯にそれを照らす。闇の視界に、ささやかな光を受けた蜃気楼が揺れる。幻のオーロラが、わたしの意識に拡がっていく。それが、わたしには砂漠のオアシスに思えた。遥かなる月の雫が、あの小高い丘に届いている…。

そう思うと、小さな笑みが浮かんだ。砂漠と月…。それは、故郷にあるものだった。わたしの思いは故郷を舞い続けていた。存在の確かな証へと、熱い思いは揺れ続けていたのだ。わたしの意識が軽くなる。脳裏に影と光の幻影が過ぎていく。

闇の砂漠に、一頭の駱駝が力強い足で進んでいく。ゆっくりと、月の雫を二つの瘤に受け進む。ブルブル…。ブルブル…と、時折、駱駝が声を漏らす。潤んだ目で、わたしに何かを話しかけている。行き先は? 駱駝のブルブルが大きくなる。わたしは駱駝の問いに答える。故郷…。未来…。

そう、駱駝の大きな二つの瘤の中に、わたしの故郷への思いがぎっしりと詰まっているのだ。その思いを未来へと運んでいく。わたしの意識は、素早く幻影の中の駱駝の背に飛んだ。闇を溶かしていく月の雫が眩しいほどだ。駱駝のブルブルが更に大きくなる。駱駝は神に借りたのものなのか…。聖なる歩みに乱れはない。しかし、駱駝は囁き続けていた。早く、神の元へお返しを…。うっすらと目に涙を浮かべ遠くの月を眺めている。

もう一度、笑みが漏れた。ひとひらの風が、わたしの両頬をふんわりと擽った。ほんの少しだが、今までの闇が色褪せているように思った。わたしは幻影の駱駝から降りた。自らの歩みを再開する。足下の砂の感触に、自らの存在を確かめる。

歩む足が少し早くなる。このまま進むと、遥か古代の時代に生きたいにしえの人たちが、わたしを待っていてくれるような錯覚を覚えた。時空を越えたそんな出会いに、思わず胸をときめかせていた。居るはずのない駱駝のブルブルが、引き続いて耳元に聞こえる。遠くの闇が、ほんのりと明かりを引きつけていく。胸の鼓動が熱くリズムを刻む。

砂を蹴上げてみた。足下で光が舞うように思った。わたしの幼さが砂と一緒に弾ける。遠くの微かな光を、勢いよく踊る砂が引き込む。幼さが飛び跳ねる。砂を何度も蹴上げる。わたしのリズムが早くなる。静けさに軽さが絡む。闇を幼さが突き抜けていく。

光が遊び始めた。宝石の砂だ。仄かな月の雫に砂たちは輝く。わたしの笑みが大きくなる。何度も、何度も砂を蹴上げた。宝石が次々に弾ける。それぞれの色がそれぞれと交わる。わたしの存在へ光を投げかけてくる。色を見せる。輝きを現す。

足下に涼しい風を感じた。その風を光が受け止める。砂の舞が大きくなる。わたしも風を受け止めた。風に故郷の土の香りがした。流れの清水の匂いがした。思いが激しく揺れた。舞う砂がわたしの目の高さまで上る。宝石の砂に流れの水面が見える。幾つもの蛍が煌めきの水面を横切っていく。月の雫に揺れる水面に蛍が戯れている。

もう一度、わたしは、自らの幻想の中に揺れ入った。煌めきの清水、そして、水面に戯れる蛍…。それらが、蹴上げる砂に重なっていく。光が幾重にも入り乱れる。意識の中の故郷が、わたしの存在に激しほどの震えを寄越す。そう、蛍…。蹴上げる砂の光が、故郷の蛍に姿を変えていく。

光が軽やかに上昇し始める。その場の空気とゆっくりと絡む。風が更に持ち上げる。生命が揺れている…。生命が舞っている…。闇を進むわたしには、そう見えた。小さな蛍がわたしを急かす。目の前で歩みを急かす。故郷の清水が、今にも見えてきそうだ。あの頃の幼さが、わたしを突き上げる。

そう言えば、蛍の夏に水辺に涼んだものだった。せせらぎが乾いた心を癒してくれた。水面を吹く風が限りなく嬉しかった。いつのことだろう…。蛍…。いつのことだ…。ずいぶんと昔に思える。そう、ずいぶんと昔に思える。

足下の蛍が揺れを大きくする。影を持たず静かに揺れる。交わる色が濃くなっていく。風が増していく。光がわたしを包んでいく。わたしは惹かれた。思わず、我を忘れそうになった。光の中に埋まっていく。果てしない輝きに引き込まれていく。いつのことだろう…。それは、わたしの過去のひとときにあった。すべて、光に包まれていた。そうだ、いつのことだろうか…。わたしは、光に包まれていた。

歩みを止めた。閉じていたわたしの過去が、そろりとめくれそうになっていた。意識を自らの中央のひとつの襞に向けた。そこにあるはずの光へ向けた。悲しさすら感じそうになる静けさが、わたしを誘う。懐かしい思いへ揺れる。自らの光に深く埋もれていく。そう、このように光に抱かれていた。いつのことだろうか…。

どこからか、せせらぎの音が流れ来る。歩む砂の下から静けさに遠慮がちに絡む。その音は、わたしの過去の中にある。意識を自らから外した。音へ方へと向ける。再び故郷へと向ける。自らの内と外を巡り巡る。

故郷の方に焦点が合った。心地よく意識が故郷へ靡く。少し激しい揺れが起こる。せせらぎの音に、わたしの内側への扉が開かれていく。わたしはその扉に触れた。扉は音もなく開いた。扉の中へ進んだ。あの頃の思いが次々と押し寄せる。巡る意識に懐かしさが木霊していく。

清水に転がる石…。それに触れた妙な感触…。ヌメヌメつるつる…。冷たい清水に、白く波立った向こう側の艶石だ…。少々、気味の悪いものだった。幼い頃に触れた。その都度、ぶるぶると背が震えた。水の精が、背をくすぐったのだと思っていた。

艶石だ…。水の精の宿る艶石だ…。幼さの好奇心を抑えきれなかった艶石だ…。あの頃、何度も何度も投げた。清水の雫が散った。水面に光が迸った。水の精たちが踊った。透明の幼さがそれを追いかけた。いつのことだろう…。いつのことだろう…。

その艶石の感触がわたしに寄せ来る。あの頃の幼さが意識に昇る。幻がわたしの手に乗る。わたしはそれを見た。それは、光の蛍たちだった。蛍たちが、あの頃の水の精となり、わたしの手のひらに乗っていた。水苔のヌメヌメがわたしの手にあった。やはり、背がぶるぶると震えた。

そんな幼さがたまらなく嬉しかった。光に水の精を探した。幼さが全身を駆け巡る。ヌメヌメを少しだけ剥がした。つるつるを滑らないように強く握った。震える背に暖かさが血流と一緒に踊る。わたしが弾けた。幼さを抑えることは出来なかった。

艶石を投げた。蛍たちを投げた。力一杯、遠くの明かりへと投げた。踊っていた体内の何もかもが、ヌメヌメつるつると共にどこまでも遠くへ飛んでいきそうだった。わたしの赤い血が、流れの上に弾ける幻が見えてきそうだった。

投げた光を追った。足下の砂が激しく舞い上がる。居るはずのないあの駱駝がわたしに迫る。駱駝も艶石を懸命に追っている。

投げた光が勢いよく弾けた。闇に咲いた雪割草だった。紅に散った。故郷によく見た。水辺の蛍の紅の隠れ家だ。光の蛍たちが我先にその紅に消えていく。駱駝がそれへ追いつく。心が思いきり弾んだ。闇の中に咲いた雪割草が、未来を行くわたしに春を呼んでいた。深い闇が徐々に晴れてきそうだった。

 

 

わたしの旅はこうして始まった。わたし自身への旅だ。自らの奥深くに、わたしは舟を漕ぎ出した。自らを解放する旅だ。過ぎていく時に、限りない美しい光を照らす旅だ。遥かなる空へ…。わたしは、幾重もの闇の波を純白の帆に受けていた。

 

 

故郷への思いが激しかった。幼さを途切れなく感じていた。無意識に故郷の風を探した。

あれから、幾度となく光の石を投げた。その度に紅の花が散った。心弾み走った。せせらぎの音が、大きくなっていった。砂の下を流れる清水が、走るわたしにちらりと顔を出そうとしていた。何かの力を感じた。何かの始まりを感じた。何かの息吹を感じた。せせらぎの音に静かに寄った。思った通りだった。小さな川が、わたしの歩みの側に、小さく形を取り始めていた。

光の蛍たちが川を覗く。始まりの流れが、蛍たちの淡い光を受けとめるる。生まれたばかりの生命が、聖なる光を呼び込み輝き始める。幾重にも光を重ね、光を被せ、光を遊ぶ。清水の解放の瞬間だ。流れは堰を切り、柔らかな煌めきの光を集めながら闇の彼方へと流れ出す。わたしの思いが創り出した清水が、緩やかな水面を形取っていく。

しばらく、その流れを見ていた。やはり、力を感じた。始まりを思った。それらの息吹に触れた。わたしは、それに祝いを送った。何度も、光の礫で紅の花を散らした。わたしの涙腺は、たわわな果実のように緩んでしまっていた。力強い流れの姿に、わたしの意識の一部が過敏に反応した。自らの瞳が、始めて開けられた瞬間を思った。母の胸に、小さな手を握りしめていた時を感じた。自らの生命の目覚めの思いに揺れた。わたしの幼さが、目の前の流れの誕生に大きく弾けた。わたしという存在の誕生へと幼さが爆ぜていく。

望んでいた…。激しく、激しく、望んでいた…。それが、自らの生命の始まりだった。そのように思う。生きる…。それだけを、望んでいた…。それだけを、感じていた…。そして、それだけを、信じていた…。

それがどういうものなのか、幼さに理解しているとはいえなかった。しかし、それは、理解を超えたものだった。自らへの揺るぎない愛だった。この流れのように、透き通った清水が闇へ向かう力強さがあった。ただ、自らを愛していた。生きる…。それだけを、思っていた。

流れに身を任してしまいたい衝動に駆られた。幼さを思い出したわたしの歩みを、この流れと共に運んでいきたくなった。流れは美しかった。何をも激しく惹きつける清らかさがあった。

あの駱駝が、まだわたしの側にいた。わたしを主人とでも思っているようだ。時折、わたしの顔を伺いに来る。その都度、大きく吐息を漏らす。歩みを急かす。

流れ沿いを歩くことにした。やはり、流れの中に身を埋めたてしまいたい。その思いが大きくなる。生まれたてのこの流れが、自らの中にあるはずの純白の幼さだけを闇の果てに運んでくれる。そう思った。歩きながら思案した。どうしても、流れとひとつになってしまいたい。

その時だった。流れの中に、一際光るものが見えた。小さなガラス瓶だった。驚いた。遥かなるわたしの生の中で、そのガラス瓶は記憶に深いものだった。あの頃の宝物を詰め込んだ瓶だ。色とりどりの貝殻、赤く青く光る石、小さな花びら、鳥の羽根、そして、抜けた歯…。それらを、精一杯集めた。あの頃の幼さが充満している瓶だ。それは、大人になる前に故郷の流れに流した。幼さが消えてしまった時、どういう訳か宝物が色褪せて見えたのだった。

そのガラス瓶が、今のわたしの目の前を過ぎていく。わたしは流れに足を入れ瓶を手に取った。懐かしさが胸の隅々にまで踊った。

もう一度、あの頃と同じ思いが浮かんだ。意識の一部が、何度もハレーションを起こした。幼さを取り囲んだ細胞が、わたしの中で限りなくぼやけてしまった。幼さだけが、意識の表面に白く鋭く昇った。胸の踊りが胸だけでは止まらない。幼さが手のひらに乗る。肩に降りかかる。背に震えを寄越す。あの蛍のように、それらは艶っぽく煌めいた。月の雫のように、聖なる光を見せた。

それらを、ひとつ残らずガラス瓶の中へと入れた。涙が溢れた。先程の思いが届いたのだ。わたしの幼さが、清らかな流れと共に闇を切り開いていく。美しい流れに導かれていく。溢れた涙が流れに落ちる。蛍の光も集めた。それで、瓶に蓋をした。時が来れば、蛍たちが瓶の中身を解放してくれる。涙の目で、それを祈った。瓶が純白に見えた。

瓶を流れに戻した。それは、未来への道標だ…。自らの存在が生まれた瞬間、その瞬間の、力強い生命の息吹だ…。激しい槌音だ…。理解を超えた我がへの愛、その透明な輝きだ…。一点の汚れのない純白なる幼さだ…。それらの果てしない未来への思いを、残らず瓶に詰め込み流れに流した。あの頃のわたしのガラス瓶に、熱い思いを詰め込み始まりの流れに流した。

ガラス瓶は、笹舟のようにゆらゆら流れた。蛍たちがその上に数多く飛ぶ。光が光を掴み、今は見えない空の果ての暁に輝いていく。流れは静かだった。どこかから漏れる明かりを、流れが徐々に引き込んでいく。わたしは側の駱駝に囁いた。一緒に来てくれるか…。側に、誰か居て欲しかった。こぼれた涙が、故郷への寂しさを思い出させていた。駱駝が頷いた。ブルブル…。鼻を大きく鳴らした。その飛沫がわたしの顔に掛かった。

遠くに見えていた地の盛り上がりが、いつの間にか近づいていた。流れはその山に向かっていた。

 

 

それは、突然だった。山がはっきりと姿を見せた時だった。故郷の山に似ていた。夜明けに見た朝日の昇る山だ。闇は相変わらず深かったが、流れの煌めきと蛍たちの遊びに少しずつ揺らきが強くなっていた。

そんな時に、風をしっかりと感じた。この地で始めて感じる遠くからの風だった。風は素早く強さを増す。激しい山颪が闇を切り裂く。わたしの歩みに勢いよく吹き荒ぶ。雲が鋭く流れ、更なる厚い雲がどこからか流れ込む。蛍たちが流れの際へ隠れた。流れの水面の光が、わたしの後方へ吹き飛ばされていった。

突風が続いた。わたしは、その意味を考える間もなく飛ばされていた。駱駝の腹に身を沈めた。辺りの砂が狂ったように光を隠す。宝石の光が瞬時に消える。深い闇が戻り、巡り揺れていたわたしの思考に混乱を撒き散らす。わたしのすべてが風に飛ばされていく。

風に怒りを感じた。あの時と同じ怒りだ。

「奪え! 奪え!」

激しすぎる怒りが渦巻いていく。闘いの猛りが激しい風に乗り、遥かなる過去より今のわたしに蘇る。わたしは飛んだ。風を交わすには、その怒りへ思いを向けなければならなかった。

「奪え! 奪え!」

過去に瞬時に馳せた。狂気の戦場が意識に醜く拡がる。狂い猛る悲鳴が、私から鋭く弾け漏れる。風へ怒りをぶつけていく。

「奪え! 奪うのだ!」

剣を高々に狂気の叫びを繰り返す。狂気に目が充血していく。恐怖に胸が小刻みに震えていく。血流の中、抑えきれない猛りや憤りが沸騰していく。熱さが怒りを鋭く後押しする。私の全身を、溶けた鉄の如くどろどろと駆け巡っていく。意識の中の野獣が、狂気の戦場を所狭しと暴れまくっていく。私は声の限りに叫び続けた。燃え盛る戦場に、私の叫びが大きく木霊した。

「奪え! 奪うのだ!」

駱駝も蛍たちもいない。己さえそこに見えない。わたしは激しい風に舞いながら、わたしの過去の流れにあった戦場に時を越えた戦いを演じていた。

「奪え! 奪うのだ!」

剣を振り下ろした。敵の断末魔の悲鳴が飛び散った。それが、私の耳をつんざく。もう一度、力の限り剣を振り下ろす。悲鳴が木霊する。鮮血が剣を狂気で赤く染める。私は馬を下りた。敵の放った矢に馬を盾にした。馬が後ろ立ちになる。矢が馬に突き刺さる。馬の叫びが、その場の狂気を更にかき乱した。

「殺せ! 皆殺しだ!」

駱駝を探した。蛍たちを探した。そして、わたしを探した。しかし、見つからない。戦場から戻ることが出来ない。私は叫んだ。狂気が、もう一度木霊する。

「殺せ! 皆殺しだ!」

山からの突風のことは、もう、頭の隅にもない。私の狂気が破裂してあふれ出していく。

「奪え! 殺せ!」

狂気に、その事のみを思う。意識が狂気に鷲掴みされていく。どうしてだ…。わたしは、未来へ向かっていたのではなかったのか…。

「殺せ! 奪え!」

馬は諦めた。馬よりも、私の怒りの方が遥かに大切だった。憤怒こそ、戦場の私の存在理由だった。怒りに意識のすべてを向けた。手にした剣を高く走る。

「殺してやる! 殺してやる!」

狂気に、怒りに、叫び続ける。声の限りに、生命の限りに叫ぶ。

「殺せ! 奪え!」

狂気だけが見えた。当然だ。ここは戦場だ。

「殺せ! 奪え!」

丘を降りた。女を斬った。誰でもよかった。すべてが敵だった。戦士を斬った。老兵も斬った。沸騰する己の熱さが、心地よくさえ感じられる。

「ウオー!」

そんな思いの中、私は斬られた。斬った老兵に背から斬られた。

「ウオーー!」

斬られた痛みにわたしが覚めた。瞬時に山颪がわたしに戻った。咄嗟に駱駝の乳に掴まった。風がわたしの中から、戦場の狂気をすかさず素早く遠くへ運ぶ。せせらぎの煌めきが霞んだ視界に戻る。駱駝のブルブルが聞こえた。蛍が側にいた。

 

 

過去だった。わたしの遥かなる過去が蘇った。それが、わたしの中で再現された。いや、その時をもう一度巡った。時が歪んだのだ。

突然の山嵐に、わたしの怒りが見えた。猛りが風に乗り、わたしの周りの時を歪めた。あの戦場だ。狂気の時へと、わたしの時が大きく捻れたのだ。私は戦士だった。怒りの戦士だった。私は戦場で事切れた。狂気から、私という存在が解き放たれた瞬間だ。

戦場での狂気…。なぜ、再び、そのことを…。

あの時の狂気は、今のわたしの中には消えてなくなっているはずだ…。事切れた時、狂気から解放されたはずだ…。

遠すぎる過去を見てしまった。醜すぎた。何よりも見たくないものだった。

いつの間にか風は止んでいた。わたしに荒れ狂った風は、既に、何事もなかったように静けさを取り戻していた。駱駝のブルブルが大きくなる。何かを嘆いている。わたしが掴まった乳が余程痛かったのか、眉間に深い皺を寄せている。目が潤んでいる。流れの煌めきが、そんな駱駝の向こう側に揺れていた。風に姿を消したガラス瓶が、その煌めきの中に見えた。

ガラス瓶…。縋るものはそれだった。あの時の狂気を癒すのは、ガラス瓶の中に詰め込んだ純白の幼さだけだ…。駱駝の背に乗った。風を引き戻す。静けさに風がわたしに寄る。

流れのガラス瓶から蛍たちが舞い上がった。無垢の純白が流れを飛ぶ。駱駝の歩みを急かせた。蛍たちが素早く流れに追い付く。駱駝を更に急かす。わたしの前方の闇を、蛍たちが懸命にかき分けてくれていた。

狂気を演じた衝撃が、わたしから少しだけ遠ざかった。幾分、闇も薄くなっていく。救われたのかも知れない…。駱駝の歩みの正確さに、煌めきの流れの水面がわたしの側に戻ってきた。純白のガラス瓶が近くに見える。蛍たちがそれへ光を注いでいる。

嬉しそうに駱駝が振り返った。嫌に大きな目だった。

 

 

それが、本当の旅の始まりだった。わたしは戦士だった。純白に思っていたわたしという舟の帆は、既に、醜く汚れてしまっていた。悲しかった。あまりにも悲しかった。

その時、わたしの舟は帆を畳んだ。この先は、風任せにはいられない。これからの旅の困難さを思った。引き戻るにも、それが出来ないことくらい知っていた。

悔いていた。純白の幼さをガラス瓶に詰め、流れに流したことを悔いていた。それがあれば、帆を畳むことはなかっただろう。狂気の風の意味が、朧気にでも分かったかも知れない。純白の生命で、わたしの過去を透き通らせて見る…。出来たかも知れない。しかし、もう遅かった。

旅を続けるしかなかった。わたしの旅は遥かなるものだった。

 

 

我に返った。駱駝の背に眠っていたようだ。駱駝の息づかいが、わたしを優しく揺らした。大きな目が振り返る。蛍たちが、周りにそれぞれの光を見せている。

儚かった。哀れの思いが大きかった。悲しさに沈んでいた。わたしは泣いていた。

蛍たちが手に乗ってきた。光の艶石を、再び、わたしに投げろと言う。ヌメヌメつるつるを手のひらに押し付ける。だめだ…。首を横に振った。そんな気になれなかった。わたしの中に少しだけ残っていた幼さは、あの風に、あの狂気に、情けなく萎縮してしまっのだ。手に乗った光の艶石を静かに地に落とした。弾けなかった。光が小さな音を立てて欠ける。闇に溶けるように消える。目を逸らした。消えていく光を見たくなかった。

流れが広くなっていた。せせらぎが小川となって、始まりの姿を力強く見せる。流れの音がわたしに向かってくる。わたしの思いなど無視し、勢いを増し弾んでいく。音が大きくなる。進め…。そう聞こえる。それは、分かっていた。流れが、わたしを急かしている。歩め…。分かっていた。しかし、それには、もう少し時間が欲しかった。

わたしに吹いた激しい風の意味を考え続けていたかった。流れが急かすのを無視した。狂気の風が、わたしに鋭い残像を残しているのだ。わたしは闇にもがいていた。思えど、思えど、あの風の意味が掴めない。風の意味を知るまではこの場から立てない…。先への歩みが意味のないものになる…。そんな思いにもがいていた。

駱駝も、時折、わたしの沈んだ顔を覗きに来た。ブルブル…、と、わたしを案じている。わたしの意識のイメージが生んだ幻影の駱駝が、まだ、その存在を見せ続けてくれていた。未来への荷物を背に背負い続け、わたしの旅の供を請け負ってくれている。駱駝が覗き込みにくる度、わたしはお座なりの笑顔を見せた。駱駝は、それを見届けると、安心したかのように水際へと戻っていく。ブルブルと、大きな目をわたしに残して…。そんなことが、何度も何度も続いた。

闇が更に深くなっていた。肌寒さを感じた。蛍たちも光を闇に休めていた。地の砂が今までの輝きを失いつつあった。それでも、わたしは立つことが出来なかった。

狂気…。まさしく、狂気の固まりだった。戦士たる者は、すべてそうだったのであろうか…。あの戦場に正常なる者は存在しなかった。いや、そのような判断など成り立たない。すべてが、あらゆる者が、影を持たない狂気に染まっていた。狂気こそが聖なる輝きのように…。そう、すべての者が…。

そのことが、戦場に存在したわたしに、僅かながらの救いになるのだろうか…。いや、そんなことはない。わたしは人を斬ったのだ。

風が欲しかった。あの山颪でよかった。わたしの心は渇ききっていた。これまでのわたしの道のりは、間違っていたのだろうか…。分からない…。

暗い意識にどこまでも重く沈んでいった。気怠い睡魔がわたしに忍び込んでくる。流れの音が少しずつ遠ざかっていく。

 

 

夢ではないはずだ…。流れの音が遠く聞こえている。あの始まりの音だ。駱駝の気配も感じている。

光が見える。蛍たちとは違う。この地に来て始めて見る色だ。遠く光が徐々にわたしへと迫る。光が形を見せる。わたしに何かを告げようとしている。そして、わたしも光に何かを話しかけようとしている。

夢ではないはずだ…。風が欲しい…、と、思い続けている。時がまた歪んだのか、わたしが光に引き込まれていく。意識の中に、遥かなる風が吹き荒んでいく。渇ききった風が舞う。

「行かないで…。死なないで…」

機を織っていた。目の前の光が、時の歪みに形を変えた。夫だった。夫が自慢の髭を撫でている。

「腕がなるわい…」

あたしは機を織るのを止めた。側に幼子の寝息が聞こえる。

「行かないで、あたしたちを置いていかないで!」

悲しさだった。あたしは夫に叫んだ。夫が辛そうにあたしの目を逸らす。夫の目が異常なほどぎらついている。狂気の光が揺れる。

「バカやロー! なぜ、争いばかり!」

眠る我が子の手を握った。あたしは泣いた。生まれてきたことを憎んだ。出来るなら、我が子とどこか別な世界へ飛んでいきたい。

「争いが、わしの仕事だ…」

目を逸らしたまま夫が小さく呟いた。そうよ、それは分かっているわよ…。そうしないと、生きていけない…。それは、分かっているのよ…。

「心配するな…」

夫に縋った。明日には、夫は戦場で闘いの戦士となる。あたしは夫の腕に身を埋めた。涙が止めどもなく流れ落ちた。

「心配するな…」

夢ではないはずだ…。髭面の男…。あの頃の夫だ…。夫の腕の暖かさをはっきりと感じる。眠る我が子への愛しさが、悲しみの中儚いほど感じられる。夫があたしの肩を抱いた。その場に白い光が小さく揺れた。

「行かないで…」

夢ではないはずだ…。光が目の前に戻る。どこか遠くのあの光だ。光が揺れる。光がわたしに何かを告げる。目を逸らすな…。

「行かないで…」

目を逸らしたりしていない。あたしには、狂気の中にそれぞれの生命が見える。機織るあたし…。戦場へ行く夫…。そして、愛しい我が子…。揺れる光の中に、それは純白に見える。それぞれに、薄く靄っている。仄かな揺れだ。生命が輝いている。無垢に煌めいている。あたしにはそれが見える。あたしたちの愛が見える。

「行かないで…」

そして、わたしの微睡みにもそれが見えた。

 

 

その時、わたしが弾けた。微睡みが一瞬に過ぎた。

生命こそが愛だった。その時の、わたしの愛の光が見えた。争いの渦の中だった。それぞれが、狂気を背負っていた。悲しい時代だった。しかし、その狂気の中にでも光が見えた。夫に灯っていた。眠る幼い生命に灯っていた。そして、悲しみのあたしにも灯っていた。純白だった。透き通っていた。暖かさをしっかりと内に秘めた色だった。

それが愛だ…。生命こそが愛だった…。わたしたちは愛の光だった…。微睡みのわたしに戻った遠くの光が、はっきりとわたしにそう告げた。

わたしは流れに立ち上がった。歩んでいかなければ…。駱駝を呼んだ。駱駝は側にいた。ブルブルを素早く返してくれた。

何かが開けたように思った。わたしは、わたしを歩む。それが、大切なことなのだ。すべてを、ありのままに…。それが、あの風を知ることだ…。

再び、前を見た。そして、駱駝にそのことを話した。光のことを、詳しくゆっくりと話した。

 

 

二人のわたしが存在した。いや、二人ではない。わたしは、わたしの中に揺れる幾つかの時の襞を感じていた。流転…。輪廻…。それが、わたしの存在に幾つもの問いを投げかけてくる。わたしは揺れた。時の歪みを理解していく。不思議な思いだった。心の隅に、重さと軽さが入り交じっていく。流れ転じる。果てしない時の中を、わたしたちは永遠の生命を生きる…。わたしたちの存在は永久のものだ…。あの風に感じた悲しみが少しずつ溶けていく。生命への強い思いが、わたしに喜びを引き込んでいく。

そうなのだ、素晴らしい時があったはずだ…。戦いなどない、素晴らしい時があったはずなのだ…。わたしたちは、果てしない時を越えた。素晴らしい時があった…。側を歩く駱駝に、そんな話を何度もしていた。分かるはずがないだろうが、話し掛けれるものは駱駝しかいなかった。それでよかった。わたしは続けた。駱駝は黙って耳を傾けていてくれた。ブルブルを、少しだけ控えてくれていた。

 

 

再度、時が歪んでいだ。わたしは気づかなかった。遥かなる流転が、今のわたしを巡り巡っていたのだ。

しかし、もう、不思議とは思わない。知らぬ間に、心の隅の重さと軽さが調和していた。時の歪みへの違和感はなかった。わたしの理解は、それを自然と受け入れていた。それが、わたしたちの永遠の生命の形だ。

流れは変わりなく闇を横切っていく。水面に光の欠片を微かに浮かべ闇を越えていく。流れの時は歪まない。流れには未来しかない。そして、その流れにはわたしの幼さが揺れている。ガラス瓶の中ですやすやと揺れている。そう思った。瓶の中に入ってしまいたかった。そんなことも、駱駝に漏らした。どの時のわたしも、あのガラス瓶を知っている。不思議がなぜか心地よい。

流れへ足を浸した。足が勝手に動いた。複数の自分の存在を知った自らの心が、喜びに揺らいでいる。心の重さを、その揺らぎが軽さに包み込んでいく。わたしの軽さたげが流れに交わる。流れの冷たさが、乾いたわたしの足先を心地よく刺激した。どこからか、水鳥が寄ってきた。生あるものの姿を見たいと思っていたところだった。自らの永遠の生を感じ、胸が熱くなっていたところだ。水鳥の動きがすごく新鮮なものに見えた。嬉しかった。

それは、蛍たちが集まった形だった。蛍たちが、わたしのそんな思いを察してくれたのだった。小さな水掻きが、透き通った清水に透けている。忙しげに水を漕いでいる。それを、手に乗せた。白い羽根から雫が落ちる。煌めきが水面に絡む。光の鳥が身震いをひとつする。

純白だった。全く汚れのない色だった。ガラス瓶とそれが重なった。駱駝に軽く頷いて見せた。駱駝も流れに足を入れた。

鳥がもう一度身震いした。わたしは、白鳥に引き込まれていった。更に熱くなるわたしの意識の焦点が、過去のひとつの時期に合った。その時期の風が、わたしに少ししたように思った。冷たいが、柔らかい風だった。

 

 

白いカモメが側にいた。真っ白な羽根から雫が一粒落ちる。沈む夕日に、それが思いの外強く煌めいた。私には眩しいほどだった。

死を思っていた。目の前の海に、溶けてしまいたいと思っていた。死の先は美しい…。静寂がすべてを支配している…。そう思っていた。私の側に漂う凪のように、それは果てしなく静かな世界だと思っていた。

分からないことが多すぎる。知らないことが多すぎる。自らの存在…。その欠片すら知ることが出来なかった。破片すら理解することは出来なかった。それでいい…。私は老いた。そして、朽ちていく。そうすれば、私という存在の意味が見えてくる。それが、死に行く私の楽しみだ。

未練などはない。私は母なる大海へ飲み込まれ、更なる未来へと向かう。未来は今より美しい。それを信じた。それを祈った。

波に老いた身を入れた。白いカモメがどこかへ飛んでいく。私の視界から消える。残したものは何もない。私は目を強く閉じた。白い波が、私の乾いた肉体を喰らっていく。苦痛がしばらく続いた。しかし、私は少し微笑んでいた。

「未来へ…」

長い時を過ぎた。私は目覚めた。いつもの目覚めではない。その瞬間、私は自らが死を越えたことを知った。

肉体が透き通っていた。陽炎のように透けていた。それを私の意識が掴む。意識に幻が流れ込む。私の新たなる形だ。私の精神と肉体がひとつになった瞬間だ。私たちの本当の姿だ。そう理解した。そう理解出来た。

「未来へ…」

微かな光が私に揺れる。理解が重なる。光こそ我々だった。我々は光だった。

私は小舟に乗っていた。漁師だった私の小舟だ。長年、一緒に海に遊んだ舟だ。舟は心地よく上下に揺れている。私も同じに揺れている。

「さあ、舟を漕ぎ出そう…」

そうなのだ…。我々の肉体も、精神も、光を隠すためのものだったのだ。自らの光の揺れを、優しく包み込むものだったのだ。美しいと思った。周りの光と、私が同じ色に光る。柔らかい風を、光が一杯に受けている。波に小舟が上下する。その度に、光が軽くなっていく。私が軽くなっていく。

しばらく、その揺れを楽しんだ。夢のようだった。いや、夢そのものだった。覚めた夢だ。夢の中で覚めていた。不思議な空間に、自らの果てしない存在を感じ続けてていた。

それは光の海だった。眩しさが、私の微睡みを呼んでいる。目を凝らした。光の先に、別なる白い光の雲が見えた。私はその雲へ飛んだ。

 

 

蛍たちの光が、今のわたしの視界に戻った。わたしはゆるりと流れに戻った。

複数のわたしが弾けていく。あの時に感じた夢遊の思いが、今のわたしを激しくくすぐる。悲しみが失せていく。戦場の狂気が影を潜めていく。歩みを再開した。純白のガラス瓶を追った。ガラス瓶は、先を行く駱駝の前に揺れている。

夢遊の感触だ。そう、あれは、肉体の死の直後、あるいは、それを少し過ぎた頃のことだった。死の以前の夢と、夢遊な思いがひとつになった。夢と思っていたものが現実となっていった。夢がわたしにより鋭いものを知らしめてくれた。そんなことが、分かり始めていた時のことだった。

死後も存在した…。そのことが、果てしなく嬉しかった時だ。存在している…。それだけで、わたしは感動を覚えていた。夢遊の世界は素晴らしかった。自らの幼さが、自らのあらゆる常識を次々に破っていった。すべてが軽くなり、自らの思いが透明に透き通っていった。あの空間で、わたしは浄化された。暖かい光に包まれ、死の衝撃や、それまでの大人の部分を洗い流した。純白の幼さに、改めて気付いていった。

幼さへの懐かしさが、流れのわたしの意識に昇った。少し悪戯を思い付いた。勢いのいい幼さが、煌めきの流れに柔らかく揺れていく。

あの頃の夢遊の思い…。それを、流れに流した。あの頃の私の小舟だ。流れに、あの舟を漕ぎ出したかった。小舟に乗り、流れの行き着く海へと誘われたくなった。漁師の私が、流れのわたしにそんな誘惑を見せていた。

駱駝が嘶いた。その方へ、わたしは振り返った。ブルブル…。駱駝の惚けたような表情に、わたしの頬に笑みがどこまでも拡がった。

思いの通りだった。駱駝が、わたしの思いの小舟の側に立っていた。夢遊の思いが現実となった。わたしは舟に乗った。蛍たちが舟にまとわりつく。駱駝が頷く。舟を流れに出す。駱駝が水面を走る。蛍たちがわたしの手に乗る。ヌメヌメつるつる…。蛍たちの艶石…。わたしはその石を投げた。先を行く純白のガラス瓶に力強く投げた。

光が弾けた。紅の雫がガラス瓶に降り注いだ。瓶が流れを大きく弾んだ。流れが速くなった。駱駝が嬉しそうに弾んだガラス瓶に走っていく。風がわたしの笑みの側を柔らかく過ぎた。

 

 

少しだけ闇が晴れた。流れが遠い光を吸い込む努力を続けている。先を行くガラス瓶と水面を歩く駱駝の尻に、ほんのりと明かりが浮かんでいる。わたしの小舟にも同じ明かりが見える。いくつもの色が遠慮がちに交差していく。

夢遊の思いが離れない。わたしは心地よく夢に遊んでいた。めくれ来たわたしの過去と、幼さと懐かしさで揺れていた。戦士の私…。機織りのあたし…。漁師の私…。それぞれの過去に、その時の思いを浮かべていた。あの頃の友がいた。家族がいた。そして、愛があった。知らぬ間に、わたしは涙していた。それぞれの人生が見えた。それぞれの歩みが熱い。思いが、果てしなく拡がっていく。

小舟の流れる速さが増す。風が流れに波を創る。舟に、わたしに、波を受けた。風を受けた。蛍たちが同じリズムで波と戯れる。風に逆らっていく。あの頃の、夢遊の揺れと同じだった。夢に思いを乗せていく。夢に意識が覚醒していく。目覚めがあるとしても、わたしは目覚めたくない。夢遊の揺れが、わたしの意識にとても優しい。

風を越えて、波を越えて、わたしの舟は進んだ。側に、あの戦士がいる。剣を高く、流れを強く歩んでいる。機織りの女もいる。子を抱いている。そして、漁師の老人が、それらの後ろから皺だらけの笑みで水面に足を運んでいる。駱駝がそれらを見て、不思議そうに首を傾げる。蛍がそれぞれのわたしを見比べている。嬉しさに、わたしは踊りたくなった。わたしの軽さがはち切れそうになっていく。幼さが爆ぜていく。

それぞれのわたしと共に進んだ。幾つもの意識が、わたしの中の至る所に層を作り、その層の周りを入れ替わり立ち替わり渦巻いていく。ひとつだけの時に焦点を合わさないようにした。その作業は、既に済ませている。時の歪んだ間に、わたしはそれをひとつひとつ巡った。自らのその時の生が、軋んだ時の中でめくるめく震えを感じさせてくれた。それは、驚くほど新鮮なことだった。そして、その新鮮さは、今も続いている。わたしの意識に、涼風となって隅々にまで流れ込んでいる。

弾む心が大きく波打つ。何かが、流れの中に見えてくる。存在の理由が、わたしの目の前にまで押し寄せる。側を歩くそれぞれの思いを、ひとつに融合しようとした。今、始めて重なった自らの流転が、そうすることによって限りなく開けていくように思った。可能性という扉を開く力が、わたしの胸の中に膨れ上がっていく。未来が見えてくる。

わたしは目を閉じた。流れを進む時を掴む。それぞれの過去を、掴んだ時の内側へと同時に引き込む。隔たった時を、瞼の裏に引き付けていく。歪む時を、自らの幾重もの層に注ぎ込んでいく。未来への扉がそこにある。わたしは歩みを止めた。

しかし、それは容易いことではなかった。わたしはまだ未熟だった。それぞれの過去の風が、思いの外優しすぎた。柔らかすぎた。

それぞれの個性が、それぞれの時の移ろいを拒んでいたのだ。それぞれが、それぞれの強い思いを抱いていたのだ。思えば当然だ。それらは、時の歪みに触れ合ってしまったに過ぎないのだ。お互いを感じることは出来ない。見ることすら叶わない。核である流れを歩むわたしだけが、それを見ることが出来るのだ。

その核になるわたしが薄い。それぞれの私を見ているわたしが、どうしたことか、限りなくぼやけてしまっている。わたしの未熟さを思い知らされた。わたしは未来への扉の手前で立ち止まってしまった。閉じた目を開いた。溜息をひとつ漏らす。

わたしは、今のわたしを探した。それぞれの時を流れた核の部分の自分だ。戦士じゃなかったように思う。機織りでも、漁師でもなかった。ああ、分からない…。戸惑いが重く蠢く。先程まで強く意識出来た自分が遠ざかっていく。己が闇に消えていくような錯覚を感じる。

自らの意識に深く入った。幾重もの層を、手当たり次第に次々と捲っていく。どうしても、今のわたしを探し当てなければならない…。そう思った。焦りが胸に拡がる。

そんなわたしをあざ笑うかのように、闇が遠ざかっていった。乗る小舟は力強く波を切り、先の駱駝とガラス瓶を追う。わたしは左右に視線を送った。それぞれのわたしが、同じ歩みのまま波の上で微笑んでいた。

それらの微笑みがわたしを責めていた。なぜ、こちらへ来ない…。

その中へと、入ることが出来ない。なぜだ…。戸惑いが大きくなる。見つからない今のわたしが恨めしい。なぜ、こちらへ来ない…。それぞれのわたしが、微笑みながら何度も首を傾げている。駱駝のブルブルがわたしを急かす。

いないはずはない…。わたしは迷子になった羊だった。不安が形を持っていく。わたしの中に闇が拡がる。恐れを抱いた。背が震えた。首を左右に振った。小舟が揺れた。駱駝が振り返る。進みが遅い…。大きな目がわたしを責めている。

小舟に腰を下ろした。揺れが大きくなる。頭を後ろへ反らした。左右に歩くそれぞれのわたしから隠れた。微笑みを返せない自分が恥ずかしい。きっと、難しい顔をしているのだろう…。見せたくない。見られたくない。

小舟に寝そべった。厚い雲を見上げた。闇は去っていくものの、雲は変わらずに重い。紺碧に色を積み重ねている。もう一度、目を閉じた。それぞれのわたしを、少しの間忘れようと思った。探し物は忘れた頃に出てくる。そんなものだ。波立つ心を無理やりに閉じた。夢遊の揺れへと、わたしは再び向かった。舟の揺れが、少しずつわたしから遠ざかった。

 

 

時の歪みは続いていた。その中へ入った。わたしの夢遊がそれを望んでいた。

狂気の戦士…。機織り女…。死の先の漁師…。その他にも、更なるわたしがいる。流転への思いを、わたしは理解していた。遥かなる自らの歩みが、今のわたしに戻り来るのだ。それを感じる。夢遊の思いがそれを引き込んでいく。

歪んだ時の向こうで、私は駱駝の背を撫でていた。美しいシルクを運ぶ。それが私の仕事だ。私は砂漠を越え東の国へと向かっていた。駱駝が踏み締める砂が月の雫に小さく舞い上がる。仄かな光の欠片たちが遠い月の光を受ける。白く透明に揺れる。私は家族を思っていた。悲しさが風と共に私の胸の内を過ぎる。

愛する者を故郷に残してのことだった。仕方なかった。そうしなければ生きていけない。しかし、私には愛する人がある。その思いだけで十分だった。この砂漠を越え、そして、戻る。そうすれば、愛する人たちとの再会がある。

顔が浮かんだ。私を待っている。微笑んでいる。優しい笑みを浮かべている。愛を感じる。待っていてくれる。いつまでも待っていてくれる。ただひたすらにわたしの帰りを待っている妻や子供たち。わたしの思いはそれへと飛ぶ。

月の雫をどこまでも追った。光の砂塵が雫の中に舞う。荷のシルクのように、それは美しいものだった。愛する人たちに叫んだ。大切だ…。何よりも大切だ…。私の頬に、一粒涙が伝った。それは、私自身が驚くほど暖かかった。

 

 

歪んだ時を戻った。流れに戻った。

先を行く駱駝の上に誰かが乗っていた。白い髭が胸にまで届いている。ブルブルの駱駝が、ちらちらとこちらを伺っている。大きな目に落ち着きがない。

そんな駱駝の戸惑いがおかしかった。わたしと背の上の男と駱駝が見比べている。きっと、駱駝には同じに見えるのだ。駱駝の目が、時折宙にゆらゆらと揺れる。駱駝の背の白髭の私が、そんな駱駝を何度も何度もあやす。よしよし、いい子だ…。この流れにも、もうすく月の雫が落ちてくるぞ…。よしよし、いい子だ…。

核になるわたしが見えてくる。もう、戸惑わない。駱駝をあやしているのは私だ。そして、あやす私を見ているのもわたしだ。月の雫が落ちてくるぞ…。どちらのわたしもそう思っていた。

蛍たちの光が流れの水面に強くなる。何か別なる光を含み出している。銀色の月が雲の隙間から顔を覗かせた。遠くの風が重い雲を徐々に天の隅へ運び出す。闇の消えていく方へ雲がゆるりと流れていく。

わたしはそんな空を見上げた。夢遊の思いが見える。月の雫が駱駝に乗る私に真っ直ぐに落ちてきていた。

 

 

わたしを見付けた。わたしという存在の核を見付けた。それは既に、わたしの中で溶けていた。わたしは、わたしの外ばかり探していた。灯台下暗し…。それどころでなかった。光の中に、わたしは無理矢理に影を創っていた。

再び、立ち上がった。波が高くなっていた。それぞれのわたしは、もうこちらの方を見ていない。眠ったようにふわふわと波に揺れている。夢遊の思いを小舟の上に流した。白い帆が小舟に上がる。風が帆に戯れる。舟が速度を上げた。流れが速くなる。

前方に地平線が見えた。それへ闇が消えていく。蛍たちがそれを知らせくれた。視線を遠くへと誘ってくれた。蛍たちに礼を言った。進む方向が分かった。あの時、光の雲へ飛んだように、あの地平線を越えていく。いや、流れの行き着くところは大海だ。大海の水平線…。それへと、わたしの帆を進めるのだ。わたしという存在の旅…。その地で、この旅は終わる。そして、新たなる未来へと向かう。限りなく輝いた未来へと…。

青い星に生まれた。美しい星だった。わたしはこの星に育った。

それは、緑の森だった。わたしは緑に育った。それは、遥かなる海だった。わたしは海に育った。それは、果てしない大地だった。わたしは大地に育った。それは、輝いた街だった。わたしは街に育った。それは、悲しみの暗がりだった。わたしは暗がりに育った。それは、狂気の戦場だった。わたしは戦場に育った。それは、母だった。わたしは母に育った。それは、父だった。わたしは父に育った。

そうなのだ…。数知れずの人生。側を歩く戦士や漁師だけではない。悲しみの男や悲しみの女だけではない。夢遊の思いに、それを気付いた。今のわたしはそれらの母だ。それらの父だ。それらの海だ。それらの大地だ。それらの森だ。それらの星だ。わたしは、今のわたしをはっきりと見付けた。核となるわたしをしかと感じた。

流転を繰り返した。永遠の時だ。遥かなる時だ。青い星でのわたしは、繰り返し、繰り返し、わたしを生きた。そして、その時々に悲しみを見た。狂気を見た。悶えを見た。いや、それだけではない。喜びを見た。熱い涙を見た。愛する人を見た。

それは、自らが望んだことだ。未来を望んでいた。今、向かっている大海の果てだ。それへと、わたしは向かい続けていたのだ。何度も自らを流転させ、未来への思いを遂げようとしていたのだ。永遠の時を、わたしは歩み続けて来たのだ。悲しみを越え、苦しさを忍び、そして、喜びへ向かってあの大海の果てへ…。存在は永遠のものだった。今、それを感じる。強さを感じる。喜びを感じる。自らへの揺るぎない愛を感じる。

今、わたしは、母となり、父となり、未来へ歩んでいる。わたしは母だ。わたしは父だ。そして、わたしはそのすべての子だ。わたしたちはひとつになる。すべての思いをひとつにする。それが、わたしという存在の形だ。流れの果ての大海へと進んでいく生命の姿なのだ。それを理解した。わたしだけではこの流れを越えていくことは出来ない。遥かなる時を歩んで来たそれぞれのわたしをひとつにする。自らへの揺るぎなき透明な愛が、それを可能なものとしてくれる。

小舟の上でひとつ叫んだ。未来へ! 舟が純白のガラス瓶を激しく追った。

 

 

闇がどんどん晴れていく。紺碧の雲が遠くへ流れ消えていく。遠くの月がわたしの小舟にも雫を垂らした。流れが拡がる。水面の煌めきがはっきりと彩りを見せていく。蛍たちの姿がその上に膨れ上がっていく。遠くの空が夜明けを迎えようとしていた。薄い紫の影が所々に明かりと共に揺れる。

わたしは進んだ。駱駝を思い切り急かした。わたしの喜びが流れに弾けていた。

愛する者の顔が浮かんだ。水面の光の中に見え隠れしていた。会いたい人たちは光の中にいる。どれもが同じ微笑みを見せている。あの頃の笑顔だ。あの時の家族、あの時の友が、光に重なっていく。幾重にも光が積み重なっていく。同じ微笑みが更に同じ微笑みを包む。笑顔が大きくなる。わたしの心の中にあらゆる愛が拡がっていく。そんな光も輝きを増していく。鮮やかに軽やかに色付いていく。愛する人たちの笑顔に美しく色を染めていく。

幸せに浸った。大切な者たちがわたしの周りに見える。わたしは孤独ではなかった。独りではなかった。あの時の妻、あの時の母、あの時の父、そして、家族、友、恋人。残らずに、それぞれの姿を見せてくれている。大きく微笑んだ。ひとつひとつの笑顔に、これ以上ない微笑みを返した。

理解が増す。わたしたちは同じ所へ進んでいく。いや、同じ思いにここまで進んで来た。あの時の娘や母、あの時の、息子や父、そして、あの時の友。何よりも大切な人たちだ。それを感じた。わたしは一人ではない…。一人ではなかった…。

わたしたちの光が強く寄り添った。言葉などいらない。同じ歩みだ。思いはひとつだ。

小舟が揺れた。流れが更に早くなった。心地よさに風が誘った。わたしは舟を下りた。光たちへ向かった。光が舟を形取っていた。光をひとつに大きく輝いている。

恍惚の思いを感じた。流れの先の駱駝が、嬉しそうにわたしを見ていた。

 

 

駱駝が駆ける。狂ったように駆ける。わたしを追っている。あのガラス瓶を口にくわえ、背の荷物を振り落とす。駱駝は流れを越えた。もう止まらない。背に羽が生えたのか、駱駝が流れの上を跳ぶ。蛍たちがそんな駱駝を支える。駱駝がわたしを追い越した。

それは、天に駆ける馬のようだった。萎びていた尾が、空に一条の稲妻を走らせる。ブルブル…。声が異常なほど大きい。わたしを呼んでいる。

「飛び立つのだ! 駱駝を追うのだ!」

そう思った時、わたしの乗る流れも跳んだ。足下の煌めきがわたしを越えた。光が地を離れ、闇の去っていく天へ向かう。力強かった。流れが駱駝を追う。清水が聖なる光と化していく。天へ弾けていく。流れは空を裂いた。宇宙を突き破っていく。

「飛び立つのだ!」

わたしも飛んだ。天を駆ける流れがわたしを迎え入れた。流れは銀河へと姿を変える。煌めきが果てしなく空に拡がる。駱駝が振り返った。ガラス瓶を銀河に流す。飛沫が散る。それが、四方へ駆けていく。

蛍たちがその飛沫を集めた。そして、わたしの手にそれを乗せた。わたしはそれを投げた。力一杯、銀河の果てへと投げた。

 

2.ひとつの時代の始まり

 

銀河は続いた。どこまでも続いているように思えた。流れに従った。流れ沿いの星を飛び石に進む。時折、流れ星が走る。どこか遠くで星が弾けているのだろうか、微かな閃光が流れ沿いに届く。その閃光の中に、駱駝がくわえたままのガラス瓶が煌めく。

それぞれのわたしも、同じ旅を続けている者たちも、見えなくなっていた。銀河の流れに、それぞれが交わってしまったようだ。不安などなかった。わたしは一人ではないのを知っている。

銀河に呟き続けた。わたしは光だった…。わたしという存在が創造されたる過去がめくれ来る。いにしえの過去が軋み蠢いていく。光だった…。その思いが胸一杯に拡がっていく。呟きが大きくなる。わたしは光だった…。吐く息が白かった。わたしが熱かった。

それは、ひとつの時代の始まりの時だ。わたしたちは光だった。遥かなる過去にわたしたちは旅立った。未来へと旅立った。それが、始まりだった。ひとつの時代の始まりだった。

思いが揺れる。銀河の流れと同じ揺れがわたしを包み込む。揺れる度、その過去が見えてくる。星の飛び石を飛ぶ度に始まりの時を感じる。流れの星はわたしの中にある輝きだ。ひとつひとつが過ぎていった時の輝きだ。流れの星は我なる星だ。わたしはわたしの中を歩いている。

それ故に、わたしがめくれていく。過去が弾けていく。時が、歪み、軋み、重なり合おうとしている。微かながら、その輝きがわたしの中からが発せられていく。生命の光だ。銀河を進むのは、その輝きに今のわたしを見せるためだ。わたしの過去たちがそれを待っている。それぞれの煌めきで光に寄り添ってくる。

ひとつの星に腰を下ろした。駱駝がそう指示した。駱駝はくわえたガラス瓶を側に置くと、流れに戻って行った。瓶の周りに幾つもの光が激しく舞った。ガラス瓶の蓋が緩くなっていく。蓋の一部が光となる。蓋の役割をしていた蛍たちだ。

純白な光が瓶から静かに漏れた。暖かかった。すべてが暖かさに溶けてしまいそうな透き通った光だった。

それを見届けて、再び、蛍たちが蓋となった。いつの間に戻って来たのだろう、駱駝がそれをまたくわえる。純白の光にわたしが少しずつ埋もれていく。わたしは飛んだ。光だった頃へ飛んだ。夢遊の思いにわたしを乗せた。駱駝の嘶きが小さく聞こえた気がした。

 

 

美しい星だ。信じられない。どこまでも青く澄み切っている。空の果てにまでそれは届いている。生命が揺れている。星自らが輝いている。美しい。引き込まれていく。純白な雲が星の所々を覆っている。その雲にまで、星の輝きが薄く色を染めていく。

私は魅せられた。いや、私たち光のすべてが魅せられた。こんなことはなかった。こんな出会いは今までになかった。私たちは恍惚の時を過ぎてきた。これ以上、望むものなどないと思っていた。しかし、私たちの心は揺れた。青い星に私たちの思いが激しく流れた。

抑えが効かない。光たちが青い星へと飛ぶ。星に掛かる雲を突き抜け、光が虹を描いた。

何かの始まりを感じる。私も星へと飛ぶ列の中にいた。未来だ…。そんな思いが、前に後ろに響いている。

「未来へ!」

光が叫ぶ。そう、私たちは求めていた。至高の時ですら、更なる成長という未来を求めていた。心の芯が震え熱くなった。星へ架かる虹を見付めた。すべての光の思いが、そこに限りなく揺れていく。光の未来…。それは青い星にあった。

「光の未来へ…」

光の中に、数多くの虹が自由な姿で駆け巡っていく。思いのままのカーブを切っていく。喜びが溢れる。明日への歌が流れる。光たちは歓喜に踊った。それぞれを思い思いに彩ってた。暖かさが増す。興奮の歓声が高鳴る。光の未来への叫びが止まらなくなっていく。

「未来へ飛び立て!」

星は私たち光の世界を強く引き込んだ。私たちにその姿を惜しみなく晒した。透明なる光を私たちに誇るように、遥かなる風に身を任せていた。その美しさが私たち光のすべてに熱い震えをもたらした。未来への思いが蠢き始めた。

「飛び立て!」

もう止まらなかった。私たちの静けさが破れた。光の中に眠っていた激しさを一気に揺り起こした。安定の光の波動に新たな熱い波動を流し込んだ。光の世界は揺れた。当然だ。星の美しさにすべてが惹かれたのだ。意味など知ろうとしなかった。理解を超えていた。星との出会いに、私たちの長い時がようやく動き出したのだ。意識の奥で、光たちは星へ限りない感謝を送った。

「更なる未来へ!」

高鳴る歓声が光の世界を大きく包んだ。万華鏡から光たちの色が溢れた。無数の虹が縦横無尽に走る。誰も抑えることなど出来なかった。光たちは跳ねた。すべてが弾けた。青い星へ叫んだ。

「輝ける未来へ!」

私たちは光である。瞬時も輝きを消すことのない永遠の光である。その存在が激しく震えたのだ。存在の形…。光以外の形が果てしなく煌めいて見えた。

「新たなる存在の形…」

私たちはそれを思った。その思いにそれぞれが魅了されていった。星へ向かう光たちは、自らの未来を星へ重ねていった。

「星に未来がある!」

光の叫びが大きくなる。星が光を誘う。

「星に抱かれよう!」

私も叫んだ。星へ飛び立つ順番が待ちきれなかった。雲を突き抜けていく私を思った。鳥になっていた。遥か過去に、夢に見た鳥になっていた。

「夢へ飛び立て!」

夢…。そうだった。私は思いがけないものを思い出した。戸惑いが小さく揺れた。不快ではない。それを、待っていたのかも知れない。夢、いつのことだろう…。夢…。遥かる流れの中にそれは確かにあった。夢…。そうだ夢だ…。

「夢へ飛び立て!」

ようやく、私の順番が回ってきた。嬉しさに思わずひとつ微笑んだ。夢の笑みだった。あの頃、夢の中でよく微笑んでいたように思う。それを無意識に再現していた。

「未来への扉が開いた…」

後ろの光が私にそう言った。私の笑みが届いたようだ。同じく、夢の笑みを送ってくれた。

「そうだ。光の未来だ…」

今まで見えなかった色が見えてくる。微笑みと一緒に私は飛んだ。虹を滑る私たちの光と交わった。美しいオーロラが、私の視界にどこまでも拡がっていった。

 

 

それが始まりだった。ひとつの時代…。そう、わたしたち光が向かった未来…。その始まりの時だった。

わたしは立ち上がった。始まりの時と共に進もう…。自らが選んだ未来だ。光の姿を変えてまでも、わたしたちは星へと進んだ。いにしえの時に光は星へと飛んだ。青い星へと飛んだのだ。

始まりの時と進む…。この銀河は、その時をも流れに運んでいる。わたしの存在への理解…。それは、すべての時と共に進むことで開けていく。あの時の激しさを今のわたしに感じる。いや、時の歪みに、今のわたしがあの時の私を再現している。銀河の時は無限に重なっているのだ。不思議なことではない。

駱駝が振り返った。どうしたの…。わたしを急かせていた。ひとつ微笑んだ。友に、あの時の夢の笑みを送った。それは届いたのか、駱駝が少し首を傾げたように見えた。

 

 

星に降りた。海が見えた。激しい猛りが私を包んだ。海に触れたかった。海は美しかった。あの頃の夢の中にいるような錯覚がした。

歩みを早くした。遠くに、太陽が沈もうとしていた。風が私を温く過ぎる。仲間たちが至る所で駆けている。それぞれの思いに向かっていく。光の色が各々に変化していく。沈む太陽に光たちが赤く染まっていく。光の叫びが私に聞こえた。

「夢だ…。夢の世界だ…」

それは、私からも小さく漏れていた。

星には海があった。山があった。川があった。森があった。むかし見た夢そのものだ。どうしようもなく嬉しくなった。私たちの未来が、既に、私の中で形取っていたのだ。夢を通して、私たちはそれを垣間見ていたのだ。気が付かなかっただけなのだ。私たち光は、光であることの安定にその輝きを振り返ることをしなくなっていたのだ。

「そう、夢の世界だ…」

海に着いた。仲間のものとは違う声が聞こえた。虹を滑る時に見た鳥だ。波の上を、そのカモメは心地よさそうに弧を描いている。私はカモメに寄った。鳥の空を飛ぶ仕組みを見たかった。白い羽根を間近で見たかった。

しばらく、そのカモメと戯れた。カモメは私を認めてはいなかった。それでも、私は楽しかった。羽根が上下する度、カモメの側に風が舞った。その風と吹く風が衝突する。風が風に弾かれる。そして、新たなる風が起きる。それが、おもしろかった。カモメは次々に新しい風を創っていた。私も真似てみた。とんでもない…。風に吹き飛ばされそうになった。

傾いた陽がどんどん遥かな沖に隠れていく。水平線が赤い色を太陽の上方へと押しやっていく。赤を凝縮し、色をこぼす太陽を徐々に飲み込んでいく。鳥がそれへと向かう。凝縮された赤が鳥をも包む。火の鳥だ。火の鳥がどこまでも風を創っていく。私は懸命にそれを追った。しかし、追いつけなかった。

どうしたことか、疲れを少々感じてしまっていた。風に流されていきそうになっていた。風を逆らう意思が薄れていたようだ。

戸惑った。光に疲れなどなかった。夢を見なくなってからは眠ることすらしなくなった光だ。驚いた。そんな、私が疲れていた。驚きと戸惑いで私は浜に戻った。浜は暗くなっていた。少し寒さを感じた。

久しぶりの眠りだった。疲れが私に睡魔を引き込んだ。波の音を意識に聞きながら眠った。眠ることを思い出しながら眠った。寒かったので砂に埋もれた。それでも、強い風が私の意識には嬉しかった。

夢を見た。未来が私にはっきりと見えていた。

 

 

銀河のわたしも夢に落ちていく。海に遊んだ。山を駆けた。森を走った。そんな思いが微睡みに揺れた。

心穏やかだった。飛び石の星がフワフワと浮いている。それに乗るわたしもフワフワしている。駱駝もフワフワとわたしの後に続く。

微睡みが深くなる。光がわたしを包んでいく。あの時の光だ。青い星へと飛ぶ前のわたしたちの光だ。強く誘われた。始まりの時…。いや、それ以前…。わたしたちが創造されたる時…。永遠の過去だ。夢と現が、わたしの眠りに入り交じる。フワフワが遠くなる。いにしえの過去が、わたしの夢に徐々に浮かび上がってくる。

雫が見えた。透き通っていた。雫がゆっくりと垂れていく。それは恵みだった。大地へと力強く染み込んでいく。木々が恵みを吸う。生命の糧にと大切に身の中へと入れていく。

そう、わたしは雫だった。意識などない。しかし、それを感じる。眠りに、それを感じる。

恵みが木々の幹を昇る。光が見える。暖かさが見える。雫がそれへと向かう。光に包まれようとしていく。それが、わたしだった。わたしは幹を越え枝に滑った。枝を越え葉に忍んだ。

そう、わたしは恵みだった。木々の葉に忍んだ。思いはなかった。思考もなかった。しかし、木々の望みは聞いていた。空へ…。そんな思いは聞いていた。

葉を飛び出した。光に誘われた。空へ…。形がない。フワフワと浮いていた。

そう、わたしはフワフワしていた…。

ふと、夢の外を思った。そういえば、わたしは銀河の星に浮かんでいたっけ…。フワフワ…。そう、星にフワフワ…。

意思などなかった。理解などしていなかった。しかし、雲が誘っていた。みんながいる。そう、仲間たちが雲にいる…。フワフワ、フワフワ…。わたしは雲に乗った。

そう、わたしは雲だった。フワフワ…。形なく揺れていた。そして、雨になる。雫になる。恵みになる。フワフワ…。

微睡みに戻った。静かだった。わたしにフワフワが続いているのがおかしかった。

 

 

そうだった。私は雫だった。だから、この星をよく知っている。夢に蘇った。そうだった。私たち光はこの星の雫だった。

星を巡り巡る存在だった。山に垂れ地に滑り、木々の恵みとなり枝に昇った。海に抱かれ雲に浮かんだ。川を流れ草と眠った。鳥に遊び虫と戯れた。そう、私たちはこの星の恵みだった。

その雫が光へと姿を変えたのだ。私たちが星に恵みを与え、星が私たちに光を与えた。そして、私たちは光となり星を飛び立った。光の世界の構築へと向かった。

生命の奇跡だ。信じられない思いが私の微睡みに揺らめいた。自らの果てしなさを美しく感じた。永遠の時が白い透明に感じた。夢が覚めた。

私は目覚めた。周りはすっかり闇と化していた。自らの光さえその闇に溶けていた。動くことをしなかった。遠くの月をただ見つめ続けた。月は私たちが星の雫だった頃にも見えたのだろうか…。あの光は、私たちのような存在の集う星なのだろうか…。風が香っていた。夜明けが近いのだろうか、遠くに鳥が鳴いている。

そのまま思考に沈んだ。気分は悪くなかった。ただ、自らの光の薄さに、少々の不安と違和感を覚えていた。波動が異なっているのだろう…。わたしがあやふやになりかけている。存在が仄かにぼやけていく。

月が消えようとしていた。彼方の空が薄明かりを帯び始める。私はゆっつりと立ち上がった。海に抱かれようと思った。太古の私たちのように、この星の雫になろうとした。

そんなわたしをカモメが誘った。どこからか、昨夕のカモメが戻って来ていた。相変わらずカモメは私を認めていない。私を拒否している。側を何事もなかったように過ぎていく。私は飛んだ。カモメを追い沖に向かった。

過去に揺れた。私たちはこうして光となったのだ。鳥に誘われたのかも知れない。消えていく月をどこまでも追ったのかも知れない。夜明けの光にうまく紛れ込んでしまったのかも知れない。感謝の念が私の中に拡がっていく。再び巡り会えた光たちの母に、私は二度三度礼を言った。沖へ向かうカモメが、ちらっと振り返ったように思った。

 

 

その時、ふと思った。今、海に抱かれるのは無理だ…。海は私を受け入れない…。私の存在を気付いてくれない…。なぜか、そんな風に思った。

私には、恵みの力など忘れ去ってしまっている。雫の思いなど消え去っている。自らの光さえ、この星では薄くなっている。存在がぼやけていくのだ。

「海は私を受け入れない…」

海へ落ちてみた。思った通りだった。母なる海は私をただ過ぎた。私を拒んだ。私の光に海の感触が届かない。恵みだった頃のような暖かさが来ない。雫の時のような静けさが感じられない。海は私を無視した。あのカモメと同じだった。海は私の存在をまったく拒否した。

悲しみが色を見せ始めた。私の光が更に薄くなった。光へ戻ろうと思った。この海に抱かれるのは、まだまだ先のことだ。星は私たち光の存在を認めていない。私たちに更なる成長が必要なのだ。光のままでは星に抱かれることは出来ないのだ。

海を出た。夜が明けていた。鳥が水面に群になっていた。水面は波もなく穏やかだった。私はその上を飛んだ。鳥の飛び方を、もう一度真似ようと思ったが止めた。私には羽根がついていない。

 

 

やはり、同じ思いの光たちが次々と戻ってきた。光たちはそれぞれに悲しみを見せていた。

雫になれなかった。恵みになれなかった。大地に染み込んでいけなかった。樹の幹に枝に入っていけなかった。葉に草に忍べなかった。海に山に弾かれた。

そんな思いを、私たちは限りなく話した。私たちのいにしえの時を互いに思い浮かべた。雫を光に変え、光の世界を創造した頃の喜びを語り合った。私たちにはそれが必要なことだった。私たちに遥かなる過去が蘇っていった。あの頃のひとつになった思いが意識に鋭くなる。

そう、あの時も、このように長く語り合ったのだ。雫の意識の目覚めに私たちは熱くなった。雫の光たちの未来は自らで築こう…。あの時、そう叫んだ。木々が見せてくれた。大地が教えてくれた。海が包んでくれた。雲が揺らせてくれた。鳥や虫が理解しくれた。愛…。そう、未来は私たちの愛で築こう…。そう歌ったのだ。

長い語りに、その時の歌が蘇っていった。それは、思いもよらぬ喜びだった。星での悲しみが、その歌に素早く影を隠した。同じ思いに結び付いたすべての光たちの成長の証だった。私たちは語りを大いに楽しんだ。歌を高くした。喜びに踊った。再び、光の母に抱かれよう…。恵みを取り戻し、星の雫となろう…。光が、あの頃のように熱くなっていた。薄れかけていた光の色もすっかり回復していった。

私たちのそんな思いが、ひとつの空間を創ることとなった。光の世界と青い星との間に、光たちの夢が形取り始めた。それは、緑に包まれた空間だった。木々の恵みの色だ。光たちの思いが、その色を引きつけたのだろう…。恵みだった頃の思いが、空間を緑に色付けたのだろう…。緑の空間は、光の世界の側にフワフワと浮かぶ州になっていった。

再び、私たちの未来が形を見せた。光たちに蘇った太古の思いが、私たちを未来へと急かせた。光が構築した緑の州は、光の未来へのステップだった。私たちはそれを理解していた。

緑の州への行き来が始まった。光たちの思いが集った州だ。光の世界を築いて始めて、光たちがその外へと意識を向けた結果の形だ。青い星との遭遇に、光たちのすべて思いが凝固した州だ。光が行き来出来ないはずがない。いや、それへ向かいたくない者などいない。光は次々に緑の州へ飛んだ。未来へのステップへと跳んだ。

緑の州では、私たちの夢が幻となって揺れた。夢に見た山。星に見た海。雫だった頃の大地。恵みだった頃の川。それらが、幻に眩しく揺れた。私たち光は緑の州で遊んだ。青い星への思いをいつまでも歌った。光の世界を後ろに見ながら、彼方の青い星に憧れの視線を送り続けた。幻想が光を包み、光たちが幻と戯れた。踊りながら未来を感じ、未来への方策が積み重なっていった。緑の州は、青い星へ向かうためのステーションとなっていった。

青い星への本当の旅立ちが近付こうとしていた。私も、勿論、緑の州にいた。夢に覚めた蝉のような思いに揺られていた。喧しく鳴き続けていた。

 

 

前方に緑の州が見える。銀河にそれは鮮やかに浮かんでいる。駱駝が急いでそれに向かった。ガラス瓶をわたしに手渡した。瓶の蓋がまた緩んでいるのだろうか、蛍たちがわたしの頬をくすぐった。光が漏れるよ…。蛍がそう告げている。

銀河は流れを更に大きくしていた。星屑の光が力強く駆ける。流星が頻繁に空を横切る。銀河のわたしも、光だった頃を思い出していた。

駱駝を追った。瓶の中の光をこぼさないように、星の飛び石を慎重に飛んだ。

緑の州に近付く。懐かしさに足が速くなる。いい色だった。銀河のわたしにも蘇っていた。あの頃の喜びが…。あの頃の熱さが…。そして、あの頃の歌が…。

 

 

緑の州で光たちは成長していった。再び、あの青い星へ恵みを…。光の思いはひとつだった。あの頃のように、いや、あの頃よりも成長した光を、あの星へと…。強い思いは、私たちの未来への可能性を大きくしていった。

緑の州は美しかった。私の中で、ひとつの理解が生まれようとしていた。それが、星への道標だった。そのことをみんなに話した。みんなも、それを感じ始めていた。緑の州にそれが流れた。星に少し近づいたように思った。

私たちは光だ…。存在の根元となるものは、すべて光の波動だ…。安定した高速の波動が、私たちの光を存在の形として見せている。しかし、星に存在するものには、私たち光の存在が見えていなかった。星には、自ら光を発するのなどいないのではないか…。私たちのような、光の波動を持つものは存在しないのではないか…。存在の形が異なるのだ。波動が異なるのだ。だから、交わることが出来なかった。触れることが出来なかった。

あの青い星のあらゆる物質は、存在の光を包んでしまっている。確かに、星は磁力が強すぎる。しかし、星の磁力が私たちの光までを引きつけようとはしない。光だけの存在では星に受け入れられないのだ。鳥や虫を見ただろう…。動物や植物を見ただろう…。彼らはあの存在の形の中に、光の波動を包み込んでいる。鳥とした形を持ち、樹という姿を持ち、存在の根元となる光を覆っている。大切に隠しているのだ。懐で暖めているのだ。

私たち独自の形を創造していかなければ…。光を包む肉体だ。光を隠す衣を光に羽織らなくてはならない…。

そんな理解だった。理解が光に拡がっていった。光たちは、再び青い星を目指した。緑の州を後にし、光の世界からもう一度飛び立った。

但し、今度の飛び立ちは、存在の形の探求だった。光たちに合った存在の形…。光を包み込む肉体の探索…。新しい雫の形だ。新しい恵みの形だ。可能性の扉の向こうにそれはある。扉は既に私たちの前に開いている。光は飛んだ。真っ白な雲を突き抜けていった。

私も飛んだ。ウキウキしていた。新しい自らの形に心浮かれていた。鳥のように大空を飛ぶ姿を望んでいた。背に羽根の生えた肉体を望んでいた。

 

 

私たちに合った肉体は、すぐには見つからなかった。しかし、慌てたりしなかった。私たちには永遠な時があった。

私たちは、青い星での存在の仕組みらしきものを掴んでいった。肉体は小さく生まれる。成長し朽ちていく。存在が変化するのだ。素晴らしい生命の流転だった。動物に多く見られた。植物は流転せずに、風を媒体に別な生命に乗り移っていた。

動物の流転に光たちが交わる…。それしか、方法がないように思われた。成長した雫…。形を変えた恵み…。光たちの未来の姿が、思いの中にはっきりと巡るようになっていった。喜びが膨れ上がった。歓喜の歌が緑の州の端々にまで轟いた。

ある動物のめくるめく進化に紛れ込むことにした。それは、光たちすべてで決めた。生命の進化は意識が眩むほど美しかった。その中へ、私たちは流れ入ることにした。私たち独自の成長の姿を思い描いた。

その動物は、数回にわたり複数の胎児を産み落としていた。光がそれへ向かった。光たちは胎児を傷つけたりしなかった。ただ、光がひとつ多く生まれるようになった。

動物の交尾。そう、愛の行為だ。その度に、光たちが雄に雌に紛れ込んでいったのだ。その瞬間だけ光が見えた。動物の心の奥に隠されていた生命の根元の光が見えたのだ。光は、私たちのような高速なる波動を持っていた。愛の光だった。私たちと同じ波動だった。この地に自分たちの子孫を残す。生命の証の光だった。自らへの揺るぎない愛の光だった。

その光だけが私たちの光を受け入れた。私たちの道を光が開こうとしてくれたのだ。動物に感謝した。私たちの新しい存在の形が、本当に形を取り始めた。それは、私が望んだ鳥ではなかった。その動物の背には羽根など生えていなかった。

がっかりなどしなかった。未来の姿が、はっきりと見えたのだ。嬉しさに飛び跳ねた。未来への踊りを続けた。私もその動物へ向かった。

 

 

力を感じた。果てしない輝きを感じた。光は私を魅了した。生命の躍動…。生きる! 激しい揺るぎない思いだ…。巡り巡る生命の奥の深さ…。生命の恵みの強さ…。その息吹…。それらを感じた。煌めく光にそれらが見えた。

真っ赤だった。太陽の光より赤かった。血の色だ。動物の中に、溢れそうになっている血の色だ。光は眩しかった。私の存在のすべてを、その光は激しく照らしてくれた。

私は光に包まれた。門出の瞬間だ。激しい渦の中だった。猛っていた。雄は全身を震わせ狂ったように吠えた。雌は何かをじっと堪えていた。悶えを瞳に見せていた。たぎりが雄と雌を激しく責める。雌も吠えた。雌が堪えていたものは生命の炎だった。雌は雄から生命の種を受け取った瞬間、限りなく大きく吠えた。炎が爆発した。烈火に動物の光が包まれた。

怒りすら感じた。生きていくことの裏返しなのか…。生命への抵抗なのか…。永遠へのぶつかり合いだった。存在についての葛藤だった。炎は激しく燃えた。雄と雌の生命の狭間で、炎が限りなく燃え盛った。その中に、互いの我が愛が火花を散らす。それが、弾け大きくなっていく。愛の行為は熱く激しく、そして、美しかった。

真っ赤な光は私を白く無にした。今までの自分の存在が薄ぼんやりと消えていく。幼さがすべてを飲み込んでいく。訳もなく走りたい。転げ回りたい。翼もないのに風に逆らいたい。透き通っていきたい。雫の頃のフワフワを思った。私はだらしなく光をこぼし続けた。

交尾が終わった。非常に短いものだった。しかし、私には永遠に感じられた。それほど、その光は私の心を強く深く激しく打った。私は泣いていた。

光が消えていく。あんなに熱かった光が視界から去っていく。信じられなかった。信じたくなかった。光が消えていく。慌てた。光を掴んだ。意識が光に引かれた。光が消えた。消えた光に入った。闇が私を迎え入れた。私の光もどこかへ消えていた。

 

 

時が、始まりの時と共に進むわたしに優しかった。少し先を急ぎすぎていたようだ。緑の州に静かな凪が訪れていた。時が、わたしの帆を緩めてくれていた。

意識に揺れた草の上に、わたしは腰を下ろした。銀河の流れも止まっている。駱駝を呼び寄せた。蛍たちを丁寧に膝に乗せた。

いくつかの時が、ひとつを除いてすべて止まった。わたしは静かに目を閉じた。唯一動いている始まりの時へ意識を集めた。もう一度、あの時の自らの思いを感じようとした。今のわたしとして、ひとつの時代の始まりの時を感じようとした。何か新しいものが見えてくるように思った。

凪が続いた。静けさがわたしを微睡みへと誘った。始まりの時へ、わたしは確実に揺れた。そこは闇だった。異なる静けさがあった。

 

 

闇の中は暖かかった。母の羊水の中だった。母の生命の音が強く聞こえ続けていた。それ以外は、まったくの静寂だった。

眠りは浅かった。時が止まっているようだった。微睡みに揺れながら、私は光を思っていた。未来を思っていた。

時折、眠りが深くなった。母の思いの届く瞬間だけ、私の眠りが深くなった。意識が羊水のな中を沈み闇を落ちていく。そんな時に夢を見た。星の雫だった頃の夢だ。星の恵みだった頃の夢だ。

そして、目覚めると必ず母を思った。なぜか、分からなかった。私の幼さが、それへと向かったのだろう。愛を求める思いが、母に流れていったのだろう…。愛は、母への思いの中にしか見つからなかった。

止まっていると思えた時も、それはそれで動きを止めないでいた。眠りと微睡みを、私が何度も繰り返している内に、微かな光が闇に差し込んでくるようになった。それは、闇をほんのりと白く染めた。静寂に光を引き込んだ。私はその明かりを見続けた。

明かりに自らを探した。不思議な思いだった。自らを探す私を、正確に感じなれないようになっていた。新しい存在の形に、まだ慣れていなかったせいなのか、光を脱いだ違和感からなのか、それは分からなかった。私の中の時だけが、止まっているようだった。

それでいいと思った。どういう訳か、私を感じられないでもいいと思った。過ぎゆく時を、そのまま身を縮めて感じていようと思っていた。

眠りではない無意識の状態だ。今までに感じ得なかった意識の奥深くにまで、私は無意識のままで落ちていたのだ。微睡み深くに、私は無意識に蠢いていたのだ。ただ、私が純白になっていた。それだけは分かっていた。

 

 

無意識から覚めたのは母の腕の中だった。意識が虚ろに私を揺らしていた。純白だった私が消えていた。どうでもよかった。自らの産声だけが意識に大きく感じられた。

暖かかった。羊水の中より母の腕の方が暖かく感じていた。肉体というものを、私は私の光に羽織っていた。暖かさが今までとは異なっていた。何か自らが熱を帯びているようだった。

手足を動かしてみた。母の腕を蹴った。叩いた。全身に黒っぽい毛が生えていた。あの動物と同じ姿だった。なぜか、おかしくなった。光の新しい形が奇妙なものとしか思えなかった。

しかし、その動きが魅力だった。母の腕に捕まれた。柔らかい感触がとても嬉しかった。

私の光はどうしたのだろう…。ふと思った。消えていったのだろうか…。私には見えなかった。やはり不思議だった。そして、やはりどうでもよかった。手足を動かしている方が、ずっと面白かった。ずっと楽しかった。母の腕の柔らかさを何度も掴んだ。激しく母を蹴った。産声を力の限り張り上げた。

不思議がいくつもあった。手足を動かす度に自らのエネルギーが低下してた。今までなら、そんことはあり得ない。光は自らの光を糧とする。愛の力で作られる光だ。光の世界には愛が満ちあふれている。補給などいらない。エネルギーが低下することなどない。やはり、光が消えていったのかと思った。

少し苛立った。自らのパワーが落ちていく。疲れてしまったのか何かを懸命に求めた。産声を止めた。口が寂しかった。

すると、母の乳が私の視界の中に入ってきた。驚いた。求めていたものを一瞬にして理解した。新しい存在の形の糧…。それは母の乳だった。母の乳は陽の光に照っていた。私の真上に二つの宝石がゆらゆらと垂れていた。

方法は知っている。私は母の乳を無我夢中に吸った。暖かすぎる液体が口の中に拡がっていく。甘い香りが鼻腔をくすぐる。感激だった。母が何よりも好きになった。両手で母を強く抱いた。母に愛を伝えたかった。愛を伝えて欲しかった。しかし、その方法は知らなかった。

何度も試みた。悲しくなるほど、何度も試みた。なぜなのだ…。どうしても伝わらなかった。乳をくわえながら私は叫んだ。白い液体が口元にだらしなくこぼれた。

伝えたいものは愛だけではない。光の存在であること…。光だった頃のこと…。青い星の美しかったこと…。緑の州を創ったこと…。光の未来の歌…。空を飛ぶ鳥に羽根に憧れたこと…。星との波動の違い…。そして、父と母の交尾…。その光の素晴らしさ…。その光に魅せられたこと…。羊水の中の暖かさ…。伝えたいことは尽きないほどあった。

どうしてなの…。どうして伝わらないの…。おしえてよ…。

乳を吸い続けた。そうしている内に、そんな悲しさに突然の睡魔の邪魔が入った。新しい糧が、私の全身を暖かく包み込んだ。エネルギーが充満した。両の瞼が限りなく重くなった。

どうしてなの…。かなしいよ…。

 

 

悲しさ…。そうだったのだ。わたしたちの未来は悲しさに始まったのだ。

銀河のわたしは泣いていた。ひとつだけ動く時に、わたしは激しく揺れていた。駱駝も蛍たちも眠っている。星の流れは静まり緑の州の凪は続いていた。

間違った理解をしていた。波動の違いだけで悲劇を理解していた。異なる形の隔たりだけで悲しみを理解していた。そうではなかったのだ。光は懸命に伝えたのだ。諦めたりしていなかったのだ。そうなのだ。新しい世界でも、光の時のように輝く努力していたのだ。

愛を伝えようとした。光の理解を取り戻そうとした。形は変われど思いは同じだったのだ。

新しい存在の形に、わたしたちは浮かれてばかりではなかったのだ。肉体というものを羽織った喜びに我を忘れ去っていた訳ではなかったのだ。見えなくなってしまった光を少しは気にかけていた。愛を伝えようとしていた。

そうだったのだ。わたしは始まりの時を熱い喜びの思いだけでなく、悲しみの思いで迎えていたのだった。

過ぎたことだ。悲しさの後、何が、新しい形のわたしを包んだのだろう…。愛が伝わらない。愛が届かない。それは、恐ろしいことだったのではないだろうか…。わたしたち光は愛を糧にしてきた。遥か過去のわたしが哀れに思えた。今のわたしは光だった頃の私に限りなく近づいている。光の思いがよく分かるのだ。

目を閉じた。夢遊に落ちた。他の時が動くのをわたしは恐れた。わたしは始まりの時の私の側にいてやりたかった。

 

 

眠りは浅かった。すぐに覚めた。夢など見なかった。側に、母はいなかった。手足を動かした。頭に触れてみた。尻に触れてみた。足を思いきり延ばした。変な感触だった。自分が、自分でなくなっている。

立ち上がろうと思った。海へ行きたかった。最初にこの星へ降りた時と同じ、潮の香りがしたように思った。いい香りだった。鼻を大きく膨らました。まだ、乳の臭いがしていた。泣き声を上げた。乳の臭いに素早く母を思った。母の乳が欲しかった。

立ち上がれなかった。手足は伸縮すれど、思い通りにはならなかった。バタバタと、もがきを繰り返した。泣き声だけが大きくなり、潮の香りが消えていく。

求めた。ただ、母の乳を求めた。海に行くことなど、どうでもよくなった。ただ、母の乳が欲しかった。それだけだった。

思考が透き通っていた。ただ、乳を求めた。それを、泣き声で訴える。そうすれば母が来る。一抹の汚れのない思考だった。更に、鼻を拡げた。口の周りについている乳の臭いを精一杯吸った。そろそろ母が来てくれるのを知っていた。

光…。愛…。そんなものが、少しだけ揺れた。どうでもいい。乳が欲しい。立ち上がろう…。そんな思いも忘れていた。ただ、乳が欲しい。母が恋しい。

母が来た。私を抱いた。乳を与えてくれた。それだけで、震えるほど幸せだった。

乳を吸い続けた。幸せを感じ続けた。満足だった。それ以外に欲しいものなどなかった。

満腹になった。声が出た。泣き声ではなかった。私が始めて出した音だった。おかしかった。思いもよらぬ音だった。何かが勢いよく破裂した音だった。

私のゲップを聞いて、母は、安心したように私から乳を奪った。ゲップが満腹の合図なのだろうか、それならば二度とゲップなどしない。私はそう誓った。乳が目の前から消えた。私にとっての二つの宝石が見えなくなった。

母が遠ざかった。どうやら、母には私以外にも子がいるようだった。信じたくなかった。猛烈に悲しかった。母は私一人のものではない。その理解が私を駆け巡る。嫉妬に狂いそうなる。激しく手足を動かした。声の限り泣いた。

思いを訴えた。母への思いを、私は激しく激しく訴えた。泣き声にそれを乗せた。限りなく叫んだ。狂ったように吠えた。

-届かない…。思いが届かない…。

私は焦った。母が去っていく。思いが届かない…。透き通っていた思考に、影が色が徐々に染まり来る。光だった頃の思いが、染まっていく思考の影に見える。私に新たなる目覚めが来る。瞬時だけの完全なる目覚めが私に届く。

-もう、私は光ではなくなっている…。愛の光の姿ではない…。光は、この毛むくじゃらの肉体に隠れてしまっている…。私は光の世界を飛んだ。これが、私の未来だったのだ…。

私は泣き続けた。母への思いを訴え続けた。

 

 

そんな日が幾日か続いた。肉体は微かに大きくなっていた。視力が驚くほど優れ、手足が少しだけ自分の言うことを聞くようになっていた。

それでも、相変わらず思いは届かなかった。何千回、何万回と訴えた。方法を幾度となく変えてみた。母の乳を思いきり噛んだ。泣き声を涸れるまで続けた。乳をこぼした。瞳をクルクル回した。背を曲げた。胸を延ばした。頭を振った。首を捻った。考えられるすべてのことを私は行った。しかし、どれもこれも同じだった。伝えたいことが、どうしても伝わらない。世界中に、私だけが独りぼっちになっていた。

瞬時だけの完全なる覚めが時折あった。その時こそ悲しさが果てしなく蔓延した。自身の今を理解することが出来た。私はこうしてこの動物に紛れ込んでいく。そして、互いの思いが通じないまま母と子として生きていく。光だった頃の輝くような愛ではなく、毛むくじゃらの肉体が持つ内に秘めたる愛で結ばれていくのだ。光だった頃を忘れ、輝いた愛を忘れ去っていく。瞬時の覚めに、そのことを順次に理解していった。それが、どうしようもない恐怖だった。理解などしたくない。光に戻りたかった。新しい存在の形は、私に馴染まないものだと思っていた。

そんなある日、母の叫ぶ声が聞こえた。別な動物が母に襲いかかっていた。訳が分からなかった。少しだけ頭を浮かして、それを見た。争いのようだった。

そんなことより乳が欲しかった。口が寂しかった。エネルギーの低下を感じた。このまま泣き続ければ、私がなくなってしまうかも知れない…。そんな恐怖に押しつぶされそうになっていた。全身が震えた。その時、私は極なる空腹だった。

それでも泣いた。それしか母に届かないのだ。存在の形である肉体を授かってからの、私の悲しい理解だった。泣き声だけが母に届く。それを、母は私の空腹の合図だと思う。母が乳をくれる。それだけだった。私たちの繋がりはそれだけだった。いや、それだけだと思っていた。

しかし、それが全く異なった思いだったことを知った。鋭い牙を持つ動物だった。母よりも数段大きな肉体をしていた。その動物の狙いは私だった。母の生命を掛けた戦いだった。私を守るため、そう、子を守る母の偉大なる姿だった。

瞬時の覚めが、母の闘いの中、私に訪れた。母のその姿に、私の中の何かが激しく破裂した。心臓が大音響を奏で出した。震えていた全身が痙攣を起こした。泣き声を高くした。瞬時の覚めに、その動物への恐怖がはっきりと浮かび上がった。

母は強かった。そして、勇敢だった。少しも怯んでいなかった。私を守るため…。逃げようと思えば逃げられるのだ。動きは母の方が早い。しかし、私がいた。

母の愛が、私に始めて見えた。それは、光だった頃の私たちの光と同じ色だった。

 

 

何も出来ない自分を恨んだ。祈るしかなかった。

戦いは長く続いた。母は強かった。しかし、体力に勝る相手は母を徐々に追いつめていった。私の目にも力の差が歴然と見えてきた。それでも母は戦った。鮮血が母の全身を染めていく。狂った牙が母を襲い続ける。

恐怖だった。母が倒れるのは目に見えていた。その後、あの鋭い牙が私を貫く。私の肉体を裂く。私が、母のように鮮血に染まるのだ。耐えられそうにもなかった。その光景が、はっきりと脳裏に浮かんだ。毛むくじゃらの手足がもがれていく。奇妙に思った目も、口も、耳も、剥ぎ取られていく。成長を遂げる前の私の小さな存在の新しい形が、粉々に破壊されていく。

目を閉じたかったが、母の最期にそれが出来なかった。その時を、私はしっかりと見ていなければならない…。そう思った。それが、何ひとつ出来ない私の唯一の抵抗だ。母の、私への愛に対する応えだ。

鈍く重い恐怖が私の中から溢れ出た。母がとうとう力尽きた。母は私を真っ直ぐに見ていた。悔いの視線が、私の眉間に鋭く突き刺さる。母は私に詫びていた。涙が一粒光った。そのまま、母は地に崩れていった。

その時、私が真っ白になった。今までの記憶が一瞬に消えた。思考も、意思も、感情も、そして、恐怖さえも消えた。何も分からなくなった。ただ、乳が欲しかった。乾ききった唇を舐め、激しく手足をバタつかせていた。

 

 

私の新しい存在の形は、私から、それまでの記憶、思考、意思、感情、それらの生命の根元を、衰退させることとなった。母の死を前に、私は真っ白になった。ただ、乳を求めた。その瞬間までが、光として存在した私に許された最大限の時の猶予だったのだ。つまり、その瞬間まで、私は何とか光を覚えていたのだ。

銀河のわたしは、それを今は理解している。人々は幼さだけを精神に抱いて生まれる。その幼さは真っ白だ。純白だ。何にも汚れていない。過去もなく未来もない。ただ、目の前のの歩みだけを大切に生まれる。そこには記憶もない。思考や意思は、まだ幼さに目覚めていない。感情すら真っ白な生命に隠れている。

始まりの時の私も、その状態だったのだ。しかし、その時の私は光に近すぎた。光を飛んで、それほど時が経っていなかった。あの瞬間まで光を覚えていたのだ。母の死に真っ白になった。それが、私の新しい存在の形の本当の始まりの時だったのだ。

それからの記憶はわたしにはない。そして、始まりの時の私にもない。ただ、生き延びていた。野獣の牙は私を貫かなかったようだ。幸運だったのだろうか…。今のわたしには分からない。光を離れた者の思いは複雑であっだろう。それだけは感じられる。

ひとつ溜息を落とした。蛍がひとつ、その溜息に乗った。他の蛍がその側で小さく舞う。静かに…。蛍たちにそう伝えた。始まりの時以外の時が動いて欲しくなかった。

 

 

なせが、海の臭いだけは覚えていた。私は一人だった。群とはぐれてしまっていた。自らの死期が近いように思っていた。

寒くなると古傷が痛んだ。生まれたての頃、獣の牙に腹を少し抉られた。記憶にないが、その時の恐怖だけは、どうやら意識の奥に根深く覚えているようだった。重い痛みに、あの恐怖が、暗い影のように忍び寄るのだ。黒く鋭い牙だった。それが、私を苦しめ続けた。

したがって、私は非常に臆病だった。いつも群の端にいた。目立たぬように小さく小さくなって生きてきた。私が群を離れたことなど、きっと、誰も気付かないだろう。私は、生きていたってどうということのない存在だった。

死というものを、やはり、怖く思っていた。何度も、私にそれが見えそうになっていた。生命が土に朽ちていく。生まれる前に戻っていくのだろうか…、それとも、土を出て空へと昇っていくのだろうか…。分からない…。それは、果てしないほどの闇の中なのではないだろうか…。底なしの闇にどこまでも落ちていくのではないだろうか…。そう思う。それが、どうしようもなく恐い。恐怖へ意識が凍り付いていく。

しかし、その時を、私は迎えようとしているのだ。腹の傷の痛みがこの冬は激しいのだ。更に、気力が失せていた。群を出たのもそのせいだった。

群にいれば餌のおこぼれにありつける。ほんの微々たるものだが、私にとってはこの上ない貴重な糧だ。その糧すら、この冬は授かるのが面倒になってしまっていた。他の者に、気遣い、へつらい、いじけ、屈し、卑しく笑う。それが、途方もなく面倒なのだ。嫌ではなく、ただ、面倒なのだ。他の者のと視線を合わせたくない。

これからは、生きるための糧を自らで探さなければならない。私に出来そうもないことだ。だから海に来た。微かに覚えている海の香りが、私の中の死への恐怖を少しでも溶かしてくれるかも知れないなどと思った。

空腹は限界になっていた。口にするものなどなかった。探す気力もなかった。風が冷たく私の心を過ぎていく。波が浜に打ち寄せては、大きく波飛沫を私に散らしていた。

夜の帳はすっかりと降りていた。完全な闇夜だった。月も星もなかった。恐怖が私を激しく苛んだ。闇は、まさしく死への恐怖と同じ色だった。底なしに落ちていく闇…。永遠の苦しみの闇…。寒さを思い出した。全身が小刻みに震えた。闇への恐怖が、その震えを素早く膨らましていく。

目を閉じた。その方が、少しだけ闇を優しく感じた。しかし、それでどうになるものでない。それは分かっていた。

最期を完全に意識に浮かべた。瞼の裏の闇に自らで落ちていく思いだった。幾度か目を開けたが、やはり、闇が深く思えた。瞼の裏を凝視し、自らを振り返り続けた。遠く仄かな記憶の母を、知らぬ間に探していた。

母への思い…。愛…。その思いだけ驚くほど暖かかった。私は思い続けた。闇を遠ざけるには、それが唯一の方法だった。

母の思い…。その思いが私を叩いた。それが、私を私に引き戻した。寒さが少し遠ざかった。震えが収まった。瞼の裏に見える微かな明かりが、頻繁に輝き始めた。明かりが近くなってくる。

恐怖など、もうどうでもよくなった。浜に倒れた。手足を伸ばした。出来るなら、このまま永遠の眠りに入りたい。風の音も聞こえない。波の音も遠ざかった。私だけに静寂が訪れていた。いつ以来だろう、これほどの静けさは…。いつかあったはずだ…。

夜明けまで、この肉体の中に私が居続けられないことは分かっていた。それなのに寒くない。身も震えていない。不思議だった。死とは本当は優しいものだろうか…。あれほど恐れていた死への恐怖が薄れていく。なぜだ…。私にだけの静寂が、私に思わぬ力を与えてくれたのだろうか…。死へ向かう自分をはっきりと自覚していた。それへと向かうのが救いのように思い始めていた。

少し眠った。眠りの時は柔らかく、そして、優しかった。瞼の裏の明かりが、私を照らし続けてくれていた。光に包まれた。光…。そう、光…。それを覚えている。幼い頃…。母の腕の中…。いや、それ以前の温もり…。母の羊水の中…。いや、それよりも過去…。光…。いつのことだったのだろう…。

潮が満ちているのを知らなかった。足にまで波が届いていたのも感じなかった。感じていても、私は動かなかったかも知れない。死への思いが私を魅了していた。それは、恍惚の思いだった。光へと戻る…。そんな気がした。漠然なる思いだ。光が何なのかも分かっていない。しかし、光へと戻る…。そんな気がした。

思いの通り、夜明けを迎えられなかった。私は波に浚われた。我が身の軽さに少し驚いた。少しおかしかった。

海は冷たかった。しかし、私の心は温かかった。何かの解放だった。群よりの解放…。生きていくことの辛さよりの解放…。死への恐怖よりの解放…。更に、私という存在からの解放…。私が解放されていった。透き通った大空へ解き放たれていく。背に羽根が生えていく。

薄れていく意識に、瞼の明かりが大きくなった。陽の光のようなその明かりは、私の闇を完全に溶かしていく。死の黒を撹拌し、私の幼さの純白を見せる。闇と光が混じあい、光と影が鮮やかに創られていく。光が私に降り注ぐ。森の日溜まりに似ていた。日溜まりは私にすら優しかった。陽の光は何にも平等だった。

それが、私の死だった。しばらく肉体の苦痛が続いた。それが終わると、私に瞬時の覚めが訪れた。瞼の光が瞼からこぼれ出た。光が影をも消し去った。

光…。光の世界へ戻ろう…。光だった頃…。美しかった頃…。そして、愛に満ちていた頃…。

海を出ていた。進む方向は分かっていた。瞬時の覚めが、私にそのことを告げていた。私は光だった…。そして、光の方へ進め…。

瞼の光に私は進んだ。肉体は、既に私にはなかった。しかし、その幻が私を包んでいた。果てしなく軽かった。子供だった頃の姿だった。腹の傷はなかった。不思議だった。存在を思った。存在とは、自らの思いが形になったに過ぎないのではないか…。私の幻の姿にそう思った。私は進んだ。光を目指した。未来へ向かった。

瞼の光が形を変えた。私の幻と光が重なり溶け合っていく。強い煌めきが柔らかく優しく私のすべてを包んでいった。

 

 

駱駝が不思議な面もちでわたしを見ていた。わたしは微笑んだ。幾つもの時が動き始めていた。わたしの微笑みが大きく拡がっていく。

始まりの時の私は光へ戻った。まだまだ、あの時は未熟だったのだろうか…。それは、遥かなる時を超えたわたしにも分からない。ただ、光たちは確実に未来へと踏み出していた。今のわたしがあるのも、あの時の力強い歩みがあるからだ。わたしは、始まりの時の私に惜しみない拍手を送っていた。あの時の思いが、今のわたしを強くしていく。銀河を越え行く更なる勇気を与えてくれる。

立ち上がった。駱駝がわたしを急かす。止まった時は、駱駝にとっていい休息となったようだ。ブルブル…。ブルブル…。何度も身を震わせ星の飛び石を飛んでいく。銀河の飛沫がそんな駱駝に掛かる。そんなことお構いなしに駱駝は駆けた。

わたしに新たなる力が沸き上がった。未来が近いことを知った。わたしも飛んだ。飛び石から光の飛沫が上がる。それが、わたしの頬に、眉に、肩に掛かる。しかし、そんなことお構いなしのわたしだった。

 

3.ひとつの時代の終焉

 

光の飛沫が何度も掛かった。頬に、胸に、腕に…。心地よかった。自らの光が飛沫に彩られ流れに飾られていく。自らの存在への新たなる思いが強くなっていく。

時が動いた後は銀河の流れが速くなっていった。水面に光が濃く浮かび、流れが更に広く深くなっていた。流れる星も動きが活発になり、その距離も近くなっていた。わたしは走った。自らの光…。そして、それ以前の姿…。その思いに、喜びが弾けていた。わたしたち光は確実なる成長を遂げている。あの時の思いが今のわたしに蘇り、それへの道が間違いではなかったことの理解が深まっていく。走りながら震えた。小刻みにいろいろな思いが弾けた。

あれから、私は光へと戻った。自らの素晴らしい成長を光の中で感じた。多くの光がそうだった。自分たちの成長を、嬉しく、そして、頼もしく思っていた。

再び、星へ飛ぶ者も多かった。更なる成長へ…。光の世界に、その思いは所狭しと渦巻いた。始まりの時と同じだった。星へ架かる虹が幾重も幾重も光を駆けた。美しさの星へ…。もう一度星へ…。そんな思いが、光たちの中をいつまでも新たなる彩りで巡り巡った。

駱駝がわたしに寄った。ブルブルと鼻を近付ける。背に乗れ…。わたしは微笑みながら首を横に振った。星を跳び光を踏む足の感触を、もう少し肌に感じ続けていたかった。始まりの時を、今、心で感じ続けているように…。

それから、私が星へ向かったのは、ヒトという私たちの形が出来上がってからのことだった。ある動物の進化に紛れ込み、それより枝分かれして私たちは成長した。やはり、私たちはあの動物とは異なる存在だった。彼らは、星に生きることを何よりも大切にしていた。未来へ子孫を残すことを至上なる喜びとしていた。しかし、私たちは無意識の中に光を追い求めた。時が経つに連れて、その存在の形が互いに異なっていったのは当然なことのようだった。

それは、光たちの、他の光に思いを届ける…、という強い意志であった。光を存在の形の中に隠してしまっていても、光は光を求めた。それは、理解ではない。光としてのあり方だった。新しい存在の形を授かった光は、母に光の思いを届けようとした。そして、母と成長した光は、母なる光として自らの光を自らの奥深くに照らそうとした。我が子へ光を伝えようとした。光たちは動物の群を離れた。群の中では生きていけなかった。私たち光は、糧以外のものを激しく強く求めた。

それが、今のわたしは分かる。わたしたちの道だ。そう、光を飛んだ光たちの未来への道なのだ。間違っていなかった。銀河の星を飛ぶわたしに、無数の蛍が喜びの舞いを見せてくれている。緑の州が後ろに遠くなっていく。緑の州…。あの頃の、あの州はどうなったのだろう…。消えたのか…。ふと、そんなことを思った。消えていても仕方ない。始まりが在れば終わりがある…。蛍たちがそろりとわたしの手に乗った。わたしは走りながらそれを投げた。弾けた虹が今までより少しだけ濃く見えた。

始まりが在れば終わりがある…。その言葉が、何度も脳裏に行き来した。わたしはその時を探した。私のすぐ側にあるように思った。駱駝の尻越しに、遠くの銀河に視線を移した。

思った通り、それはすぐに見つかった。今のわたしに一番近い過去だった。走る速度を上げた。流れる星とわたしは競争していた。そんな幼さが嬉しかった。

 

 

私は森が好きだった。森にいると我を忘れることが出来た。いや、我が胸の内と静かに対話することが出来た。太陽の強すぎる光を広葉が遮り、涼を求める鳥たちの声が静寂の中に流れる。心地よい微睡みに抱かれ、遥か彼方の自らの過去が見えてきそうになる。

自らの過去への思いが光を強く引き寄せる。胸の内に微かに煌めいている存在の意味への明かりだ。私たちは、その明かりにいつまでも導かれている。鳥が大空を越えていくのだ。清水が大海の彼方へうねりを見せていくのだ。風が遥かなる銀河の果てへ向かおうとしているのだ。

夕暮れだった。太陽が遠くの山に消えていく。茜色に雲の狭間に落ちていく。森の中に風が忍び、数多くの虫たちが動き出す。落ち葉から薄い霧が浮かび、朽ちない生命が森に揺れる。森の表情が素早く変わっていく。

黄金の時だ。光をしっかりと自分の意識に抱く。深い思考に風が爽やか絡む。軽い風だ。皮膚を柔らかく過ぎ、胸に暖かさが届ける。意識に灯る仄かな光へ、これ以上ないほど優しくそよぐ。誘っている…。風が私の全身に静かなリズムを奏でる。平静が私の背筋へゆらゆらと押し寄せる。幼子の白さへと、私の意識が揺れる。微笑みが私からこぼれる。

旅立ちだ…。とうとう、私の順番が来た…。

星を譲る…。星の思いが人々の思いと重なった。青い星は遥かなる未来へ向かう。私たちが光を越えてきたように、この青く美しい星も、更なる歩みを始めようとしている。私たちがこの星の雫だったように、星は果てしない宇宙の雫だったのだ。雫が形を変えようとしている。時が永劫の中の変化を醸し出していく。

この星を私たちは旅立つ…。そんな人々の思いが、この星に色濃く漂うようになった。それが、未来への新しい歩みとなった。果てしない宇宙へ私たちが風を送った。私たちの思いが遥かなる風を創った。風が銀河に届いたのだ。月を越え闇を飛び越えていったのだ。人々はそんな風に乗った。光の銀河へと向かった。光へと駆けた。

私もその道を進む。それへの微塵の不安もない。仲間たちが無限に私を待っているのだ。光たちの手招きが、今にも私に見えてきそうなのだ。銀河へ向かった風の香りが、今の私に強く感じられる。光の暖かさが、胸の奥に直接流れ込んでくる。

この森には、もう誰もいない。私がそれらの者たちを水先案内した。いや、私ではない。私はただ、その者たちを湖の畔へと誘っただけだ。木々の間に微かに見える鏡の水面を持った湖だ。風が静寂の時に拵えられた湖だ。未来への思いの清水が湧き出る湖だ。私も、その清水へ身を任せる。この森を星へ返す。それが、私に与えられた最後の任務だ。

湖は美しすぎた。誰一人、引き返そうなどと考えた者はいなかった。道に迷う者など誰一人としていなかった。私のお節介は全く不必要だった。私の最後の任務は、思いの外何の障害もなかった。清水へ向かった者たちは、既に光を取り戻していた。太古の美しい姿を私に見せてくれていた。透き通っていた。微笑みが光から溢れ漏れていた。幼さがそれぞれに勢いよく弾んでいた。旅立つ者たちは、見送る私に優しさだけを送り続けてくれた。

私は湖へ歩いた。自らの過去が心地よく意識に揺れていく。この星の息遣いが私を擽っている。星との別れだった。そこには喜びがあった。私にはそれが嬉しかった。

 

 

その始まりは私たちの光だった。星の人たちの意識に、私たちの遥かなるいにしえの形が見え始めた。光の本来の形を、星に住む人たちが探し始めた。光が星へ降り立ったのだ。光たちの激しく強い思いだった。未来への思いを、光たちは星の人たちに訴えた。

人たちは光との再会を果たした。この星を先に旅立った光たちが、星の人たちに光の姿のまま限りなく近付いた。時空を越え、異なる存在の形同士が意識を触れ合わした。

それは、互いに同じ存在の意味を持つ光たちだ。存在の形が異なれど、元は同じ光の世界に成長を遂げてきた者たちだ。遥かいにしえに、同じ思いに光を超えた者たちだ。過去にこの星に住み黄泉へと流れていった光たち、それをも越えて再度この星へと生を育んでいる者たち、それらの触れ合いだ。触れ合いは、その者たちの深く心の底にまで及んだ。

星の人たちは、忘れていたものを思い出していった。光だった頃の思いを、徐々に意識の襞に蘇らせていった。光たちの強い思いを、胸の奥深くに新たなる思いとして浮かび上がらせていった。人々はその触れ合いに震えた。自らの存在の意味を、その触れ合いに見出そうとしていった。

そして、人々は光に訴えた。光たちが星の人たちの思いを開いた。重い扉が果てしない時を越えようやく開かれたのだった。

私が、まだこの星に生まれていない頃の話だ。記憶にはないが、私はその時、光の方にいた。この星の人たちへ光の思いを精一杯届けていた。

光の触れあいは全世界に衝撃を与えた。全世界のすべての人たちに、光たちは残らずコンタクトを取ったのだ。この星に生きるすべての者だ。誰一人として例外はなかった。子供から老人まで、光たちは区別しなかった。街に暮らす者、海に暮らす者、山に暮らす者、暗がりに暮らす者、悲しみに暮らす者、争いに暮らす者、そして、権力と暮らす者…。光たちは関係なかった。光たちの思いは何をも越えた。

光たちは、その日を待っていた。この星を旅立った光たちが、再びひとつに結びついたのだ。残していった人類へ対してのセンセーショナルな光のカーニバルだった。光たちからの素晴らしい贈り物だった。光が人類の新たな扉を開いていった。

人々はパニックに陥った。光たちは信じられないほど人たちを愛していた。美しい光を人々の意識に暖かく優しく見せた。人々は光たちの思いを受け取っていった。光が自らの鏡に見えたのだ。もう一人の自分を、人たちはそれぞれの光に見い出していったのだ。光と人たちは愛で結ばれていった。光の愛が人たちに見え始めたのだ。愛の光が美しく透明に見え始めたのだ。

それは、長い長い触れあいだった。世紀を越えた光のカーニバルだった。

その結果、人々は、今まで以上に自らを愛するようになっていった。自らへの深い理解を、光たちと共に求め合っていった。光たちとの会話が、すべての人たちの楽しみとなった。生き甲斐となった。あらゆる時間を、それは魅了した。自らの存在の意味の扉が、その光の中にあったのだ。人々は深く深く自分に沈んでった。本来の静けさの心に正面から向かい合っていった。自らの魂の浄化へと緩やかに進んでいった。

光は、そんな人たちの質問のすべてに美しい回答をしていった。それは、言葉ではなかった。その者の意識に、理解という色の揺れる光を見せたのだった。愛で彩った回答だった。質問を光に問った瞬間、その者の意識に理解への灯火が揺れる。光の愛がその者に向かって煌めく。人の持つ愛が、それへの理解へ手を伸ばす。人々に微笑みが絶えなくなっていった。存在という重さ、尊さ、そして、その意味を人々は徐々に気付いていった。

光の愛は例外なく人々の胸を打った。それは、権力の側にいる者たちとて同じだった。欲望…。エゴ…。権力…。狂気…。光は、それらの濃く影を持つ黒い色に透明なる明かりを照らし続けた。焦らず忍耐強く、そして、限りない愛で、黒い色を消し去っていった。未来への美しい色で、影の部分を輝きを流し続けた。

人類に開いた扉は世界をひとつにした。光たちの触れあいに人たちは心躍らせた。未来が大きな輝きを持ち始めた。

長い時が過ぎた。光たちと人類は、更に結び付きを深くしていった。世界の各地で光たちが踊った。光たちは人々に希望の踊りを見せた。銀色のフルートで愛の調べを奏でた。未来へ帆を張る純白なる方舟を見せた。光は未来への指揮者だった。人々は光の後を追った。生活そのものが光たちとの触れあいとなった。暖かさがすべての人々を包んだ。人のすべてが新たなる輝きを帯び始めた。黒い欲望が星から消えようとしていた。

その頃に私は生まれた。私は至高なる幸福者だった。母の愛に包まれ、父の強さに抱かれ、そして、光の暖かさにくるまれて育った。父は、よく私に言った。お前の背に光る、その美しい光がこの星のを変えたのだ…。そして、その光は必ず未来を目指す…。銀河の果ての可能性を目指す…。その純白で透明な色こそが、私たち人類の色だ…。父の言った通りだと思った。私の光は、私が感じても美しく純白な光だった。

背に光る光…。私のような形は、私たちの世代からだった。そのことについて、光たちは常に私に告げていた。君たちがしんがりだ…。すべての人が、光が星を旅立つ。その、名誉あるラストランナーだ…。

私たちの世代の人間は、それを疑ったりしない。私たちは、ひとつの時代の終焉に生きることを、言葉では言い表せないほど誇りに思っている。星を飛び立つラストランナーとして、限りないほどの栄誉を感じている。背に灯る透明な光に、心よりの感謝をしている。

その時が、来たのだ。そう、私がしんがりだ…。そう、ラストランナーなのだ…。心が弾む。背の光がいつもより少し暖かい気がした。

 

 

銀河にいるわたしの背も暖かかった。走る速度は緩くなっていた。流れる星が時を柔らかくしてくれていた。銀河の流れが更に優しくなっていた。

今のわたしに一番近い過去を巡っていく。思いはスムーズに流れていた。満足な思いを駱駝に話した。ブルブルが多くなる。新たなるわたしの幼さが、意識の襞の隙間からめくれていく。背の暖かさを何かが後押しする。血流がそれへと押し寄せていく。

そう、わたしはラストランナーだった。星を最後に飛び立つ名誉ある任務を、わたしは遂行したのだ。そして、その道を歩み続けている。先立った友たちが、光たちが、わたしを今か今かと待っている。この銀河の果てで首を長くして待っている。そう思うと、わたしの心がどこまでも弾んだ。駱駝の鼻を撫でた。蛍たちの光を撫でた。わたしのウキウキが銀河へと跳ねていく。

 

 

私の足取りはいつものように軽かった。どこかで鳥が鳴いている。カケス…。その囀りが遠くに近くに聞こえる。声が私の側で重なっていく。私に夢に遊べと告げている。不思議な思いだった。夢に揺れていく自分が見えてくる。自らの鏡の中へ沈み込む思いだった。二人の私が存在していた。私に過去と未来が入り交じっていく。背の暖かさに優しさを流し込む。

歩を止めた。光たちとの出会いの時に思いが自然と向いた。人々は死を前に人生を回顧するという。私もそれに習った。光たちとの数多くの触れあいを脳裏に浮かべた。湖畔に一人腰を下ろした。誰もいない。風が柔らかく過ぎていく。私は微睡んだ。

 

 

微睡みはしばらく続いた。風が変わらずに優しかった。背の暖かさが増していた。

目覚めはいつもとは少し違っていた。私の背の光が私の目の前に見えた。

「我々はひとつの光だった…」

光が私にそう告げる。目覚めの私が光を抱く。

「美しい時だった。至高なる輝きだった…」

私の光を風が揺らす。別なる光がその風に交わる。

「光は永遠の存在である。我々は更なる未来を目指す…」

別なる光が私の光を包み込む。意識が光に引き込まれ、交わる光が大きくなる。

「我々は、ひとつの光だった。それが、なぜ争うようになったのか…」

交わった光は、私の遥かなる過去の輝きを見せた。その時の思いが鮮明に私の光に拡がっていく。その時の私が意識の表面へと昇る。流転の時へと私が巡る。

「私たちは、すべてを経験しようとしたのだ。叡知の輝きを求めたのだ」

それは、厳めしい戦士だった。長い髭を風に靡かせている。

「私たちのような光が、宇宙の果てには数知れず存在する。その光たちは、すべて至高の世界へ歩を進めている。より高く。より美しく。そして、より深い愛に…」

強いデジャヴュを感じた。いや、その時を私は巡っている。私の意識に浮かぶ太古の戦士は、私の過去の部分だった。自らの存在へのひとつの理解が私に流れ込む。私は太古の戦士だった。髭面の厳めしい戦士だった。

戦士の私が今を巡る私に続けた。私という存在の扉が開かれていく。

「私は、その光たちと触れ合った。戦場を後にしてから、そう時は経っていなかった。私から争いの狂気が遠ざかった時だった」

私の過去が今の私に優しい。遥かなる時を越えた触れ合いに、私の光が熱を帯びていく。

「宇宙の光は言った。争いもひとつの野道だ…。茨の野にそれは激しい…。そう、茨すら我々は受け入れる。それが、我々の光の姿だ…」

過去の私の鎧が重々しい。違和感はない。再び、同じ時を巡っていく。時を越えて、強面の戦士が私の中にどっしりと座る。

「それが光なのだ…。私たちの光も、同じ歩みを続けているのだ。遥かなる宇宙へと進む。果てしない未来へと舟を漕いでいく…」

私の光が猛烈に熱くなった。私の理解が更に進む。髭面の光の影から、もうひとつの光が顔を出す。陽炎が形を帯びていく。

「愛…。あたしたちは愛の光…。あたしたちそのものが愛…。光は、愛だけに輝くの…」

機織る女が私の光の前に出た。強すぎるデジャヴュを感じる。過去のひとときに私の意識が素早く切り替わる。髭面の戦士の側に、機織る女が腰を下ろす。微笑みながら私の中央に座る。

「戦場にも、愛の光は揺れていたわ。あたしは、それをはっきりと見た。純白だった。透き通っていた…」

機織る女の微笑みが続く。今の私の微笑みと似ている。

「そうよ、いつだって、光は輝きを褪せたりしない。どんな一瞬も、あたしたちの胸の奥深くで光り続けている。あたしたちに、あなたたちに、その存在を気付いてもらうために…。そして、その光が美しくあたしたちに見えてくる時、すばらしい未来が開けるの…」

幾つもの私が、揺れる私の意識を駆けていく。思いは同じだった。未来への思いが次々に弾けていく。時を越えた触れ合いに、恍惚の思いへと私が沈んでいく。自らに幾重もの時の歪みが蠢いていく。それが、徐々にひとつに溶けていく。

「すべてのものに、あたしたちの光が見えてくる時、輝ける未来の扉が開かれるの…。その時が来たのよ…。今がその時なのよ」

機織る女の微笑みが、私の中央から位置を変える。入れ替わり、青い時を背負った光がそれへ座る。髭面の光の微笑みをすり抜け…。

「思い出そう…。ぼくたちは光を越えたんだ。知っているだろう…。ぼくたちは光だった…。この星に魅せられた。この星は美しすぎた…」

幾重もの思いが強く結ばれていく。複数の私が色をひとつにしていく。

「星は、ぼくたちがまだ見たことのない色だった。当然憧れたよ。覚えているだろう…。光を飛んだんだ。存在の姿であった光の形を、ぼくたちは変えていったんだ。星に向かったんだよ…。地球さ…。青く澄んだこの地球さ。それは、美しずきだんだよ…」

その光はエンジニアだった。今の私に似ている。

「光の姿では、星に降り立てなかったんだ…。ぼくは鳥になりたかったよ…。覚えているだろう…。翼のメカニズムを体験したかったんだ」

光が私に手を差し伸べる。背負った青い時が私にこぼれ来る。若者は宇宙技師だった。私に懐かしさがどこまでも拡がっていく。

「でも、それは叶わなかったさ。星と、ぼくたち光は、光の波動が著しく異なっていたんだ。ぼくは鳥になれなかった。でも、ぼくたち光は新しい存在の形を探求した。覚えているだろう…」

そう、私たちは光だった。光の世界で至高な時を過ごしていた。ひとつの光の世界に、すべての光の存在を理解し合っていたのだ。しかし、私たちは光を飛んだ。青く澄んだ星に魅せられた。星は美しすぎた。私たちは飛んだ。私にそれが見えてくる。

「ぼくたちは諦めなかった。どうしても、星に降り立ちたかった。すべての光で話し合った。覚えているだろう…。ぼくは、鳥になろうって言ったんだけど…」

そう、私も鳥になりたかった。羽の上下する度に、風が舞っていたのを見ていた。そんな気がする。空を飛ぶ仕組みを知りたかった。分からなかった。私は鳥を真似た。とんでもなかった。風に吹き飛ばされそうになったんじゃなかったっけ…。

「そう、鳥にはなれなかった。しかし、我々は美しい存在の形を手に入れた。我々は永遠の成長を続けた」

青い青年を押しのけ、漁師が私の中央に出る。皺だらけの笑みが光に見え隠れしている。あの頃の白いカモメが見えてきそうだ。

「我々の成長は果てしないものだ。再び光へと…、その思いを魂の奥深くにしまい込み未来へ目指した。幾度も流転を繰り返し、遥かなる宇宙へと帆を上げ続けた。それが、我々の姿じゃ…」

漁師が私の中央を過ぎていく。背に光る光から更なる光が浮かび上がる。

「光の世界を覚えているだろう…。美しい時代だった…」

光に白い髭が形取っていく。私の流転の時の思い出深い髭だ。

「愛の光で私たちは輝き続けた。至高の時を過ごした。しかし、私たちは未来を目指した。覚えているだろう…」

白い髭の男に私は頷いた。男の白髪にどこからか月の雫が垂れている。駱駝のブルブルが微かに聞こえてくる。

「その前は、星の雫だったのよ…。あたしは、そう思うわ…。だから、星のことをよく知っていたんだわ。フワフワ、フワフワ…。夢よ…。あたしたちは、夢を行き来していたんじやない…。雫になりフワフワ…。夢の中でフワフワ…。気持ちよかったね…」

再び、機織る女が揺らいだ。突然、母を思いだした。母は、数年前に私が鏡の湖に送った。母の声が、機織り女から漏れているようだ。

「交尾の時よ。愛し合う瞬間…。その時しか、光が見えなかったよ。覚えている…。美しい光だったわね。生命の光よ…。光は星での生命の入口だった。生命を燃やすことが、愛の光を見せることだったのだわ…。覚えているでしょ…」

覚えている。そう、私はそれを覚えている。

「あなたの背に灯る光こそ、我々の形です。あなたは、すべての光たちと同化しようとしています。光へと、ひとつになるのです…」

今度は、天使のような囁きだった。鳥の囀りを思い出した。

「さあ、ラストランです。あなたがラストランナーです…」

白い衣を纏った女が戦士の髭面を撫でる。私の中央に歩み来る。髭面の笑みが幼くなる。

「そう、すべての光が、あなたを待っています。あなたのラストランを、光たちすべてが限りない誇りに思っています…」

女は、私に細い手を差し伸べた。私は我を忘れた。その手にぶら下がった。私の中に幼さが駆けめぐる。聞いたことのない美しいメロディーが根その幼さに優しく絡む。

「あなたの背の光が、この星を最後に飛び立っていきます。未来への光です…。あなたたちは、選ばれた者たちです。この星から旅立つのです。死というものを越えずに、あなたたちは星を飛び立つのです。あなたたちだけが、それへ挑みます…。勇気ある光たちです…」

聖母だった。私は、その腕にぶら下がったまま幼さを演じ続けた。涙が溢れていた。私の光の揺れが激しくなった。

「死を越えずに星を飛び立つのです。それは、あなたたちにしか出来ないことなのです…」

聖母の微笑みが涙で霞んでいく。私は聖母の腕から降りた。聖母が言った、死を越えずに星を飛び立つ…。その言葉が何度も私のすべてに木霊する。

「すべての光が、銀河の果てで待っています…。あなたたちのラストランを、すべての愛で待っています…」

死を越えずに…。それは、私たち光の新たなる旅立ちを意味していた。星で暮らした光たちは、死というものを越え未来へと旅立った。そして、私たちしんがりの光がそれを見届けた。それを見送った。しかし、私たちラストランナーは、自らでそれへ向かわなければならない。死を越えずに…。それは、光である存在の私たちが、その存在の形を変えることなく未来へ踏み出す第一歩となるのだ。そのことが、光たちの更なる未来への踏み台となっていくのだ。銀河の果てへ向かう力となっていくのだ。

「あなたたちの世代が、それを成し遂げるのです…」

光へと、死を越えずに昇華する。その姿を、先に旅立った光たちへ見せるのだ。その姿こそが、私たちのこれから先の存在の形となるのだ。そんな私たちが、すべての光に抱かれる時、すべての光がスパークする。私たちラストランナーたちは、その導火線となるのだ。未来への更なる扉はそうして開かれる。宇宙での存在の形を、私たちが手に入れる。

「あなたたちは、その為にこの星へと戻ったのですよ…。選ばれた勇者たちですよ…。勇気ある決断でした。自らで、茨を選んだ光たちですよ…」

そう、私はそれを選んだ。重要な任務だ。私たちのその経験を光たちすべてに伝えるのだ。そして、光は銀河を越えていく。光の存在のまま宇宙を越えていく。それは、光には未知なるものだった。そう、私はそれを選んだ。

「さあ…。その時が来ました…」

幼さを、胸に溢れんくらいに抱いた。私は泣いた。そうなのだ、私はそれを選んだ…。この星を最後に飛ぶ。光たちのしんがりとなる。自らが、それを選んだのだ…。

「さあ…」

聖母が消えた。私は、いつの間にか戦士の背を抱いていた。機織る女と手を繋いでいた。エンジニアの若者と微笑みを交わしていた。漁師の腕に掴まっていた。シルクを運ぶ商人の肩を叩いていた。それぞれの瞳の中に、更なる光が私と同じ色に揺れていた。

 

 

時が来た。私は立った。背の光が激しく熱を帯びていくのが分かる。生命の息吹を感じた。体内の血液がブツブツと沸騰していく。目を見開いた。この星を、こうして眺めるのもこれが最後だ…。そう思ったら風が吹いた。私の中へ森が優しさの風を起こした。

全身の熱さが増していく。不快ではない。不思議でもない。意識の中に吹いた風が、私の不安を吹き飛ばしてくれていた。私は揺れた。胸の奥に涙の清水が見えた。どこまでも透き通っていた。喜びの涙だった。

その涙が私からこぼれていく。鏡の湖に、それが微かな音と立てて沈んだ。

「あなた…」

その時に聞こえた。私にとって、今、誰よりも側にいて欲しい者の声だった。

「そうよ…。そんな、素晴らしい涙があることを、あたしたちは知らなかったのよ…。あたしたちは、その涙を知るために、この星へと飛んだのかも知れないね…」

妻は私の側にいてくれた。私の来るのを、鏡の湖畔で待っていてくれたのだ。

「そう思わない、あなた…」

私は頷いた。その通りだと思った。歓喜の涙がせせらぎになっていく。妻がそれを手ですくった。そして、それを私に飛ばす。飛沫が飛ぶ。妻の幼さが揺れる。

「あたしも一緒よ…。喜びの涙の川…。二人で流れていきましょ…。ねえ、あなた…」

チロチロ…。チロチロ…。瀬音が、いつか聞いたメロディーに聞こえた。天使にぶら下がった時のあのメロディーとよく似ている。

「さあ、あなた…」

透き通った涙に私は身を入れた。全身の熱さが私を溶かしていく。心地よい。実に心地よい。妻の手を探した。まだ少し距離があるのか、それはすぐには見付からなかった。

「君の言う通りだよ…。そうなんだ、私たちは、この涙を知るためにこの星へ飛んだのだ…。君の言う通りだよ…」

せせらぎが小川になった。水面に、私たちの過ごした森が揺れる。

「見て、あなた…。日射しが、私たちに集まっている」

妻の手に、どうしても触れたかった。思い切り手を伸ばした。妻の微笑みが近くに感じられた。眩しい日射しにそれは輝いていた。

「本当だ。透き通った日射しだ。純白の日射しだ…」

妻の手に触れた。私はそれを強く握った。

「あなた、一緒に進みましょう…。あたしもラストランナーの一人よ…」

妻も私の手を強く握り返す。私の熱さと妻の熱さがひとつになっていく。

「そうだった。そうだった。君もラストランナーだった」

究極の喜びに包まれた。妻の喜びも私に確実に伝わってくる。私の意識のあらゆる部分が、一斉にハレーションを起こす。強い光が私の中を駆けていく。

「一緒に歩もう。私たちの未来へ…」

妻を抱き寄せた。妻の小川が妻の背越しに見えた。私と同じ色の流れだった。二つの流れがゆっくりとひとつになっていく。

「行こう。二人して行こう…」

強く妻を抱いた。口づけを交わした。チロチロ…。チロチロ…。二つの流れの瀬音に絡ませて、私は言った。愛している…。私のすべてで愛している…。妻の微笑みが限りなく美しい。流れの水面にどこまでも煌めいていく。

「あなた。覚えている。あの戦場でのことを…」

私も思い浮かべていた。あの時の私は戦士だった。妻はキルトを縫っていた。

「ああ、覚えているよ…。私たちはずっと一緒だった」

そうなのだ。私たちの愛は永遠だった。どんな時も二人は離れずにいた。流転の中でも強く結ばれていた。

「きっと、いにしえに二人は結婚したんだ。第一回目の結婚式は光の中だったんだ…」

そんな冗談が楽しかった。握る妻の手に力が入っていく。妻が私の肩に頬を乗せた。

「そうよ、わたしたちは、ずっとずっと愛し合ってきたの。とんな時だってあたしはあなたの側にいたわ…」

私の小川と妻の小川が合流した。チロチロ…。チロチロ…。メロディーが二人の好きなモーツアルトに変わる。

「約束を覚えている?」

微笑みの妻が言った。私たちは、自らの存在の理解の入口に立っていた。私たちに、すべてのものが見え始めようとしていた。だから、妻の言ったことに頷いた。約束は忘れていなかった。

「いいのか?」

もう一度、口づけを交わした。妻が優しく頷いた。

「いいわよ…」

私は妻の背に乗った。妻の背の光が私を包む。二人の約束は、妻が私を背に負ぶっていくということだった。私たちは、その約束を空の上でした。光へ戻る私たち…。しんがりに飛ぶ私たち…。二人は星へと飛んだ。その時の約束だった。

「案外軽いのね…」

妻は感謝のしるしだと言った。流転の中で、あなたはあたしを心から愛してくれた…。この星で、あなたはあたしにとってもよくしてくれた…。だから、最後にこの星を去る時には背に負ぶってあげる…。あなたは、あの時、戦場で足を傷つけたのよ…。再び、痛くなったら困るでしょう…。だから、だから…。

「嬉しい?」

嬉しかった。心に流れる涙が、私たちの小川に限りなく溢れていく。小川が小さな波を立てる。煌めきを増していく。

「嬉しいぞー!」

私は叫んだ。妻を強く強く抱いた。暖かい風が二人に注ぐ。

「愛しているぞー! 永久に、永遠に!」

私は妻の背で溶けていった。チロチロ…。チロチロ…。モーツアルトのメロディーが、少しずつ少しずつ遠ざかっていった。私たちの小川に、私たち二人だけの風が吹いていた。

 

 

駱駝がわたしの首筋を舐めた。背に乗れと言っている。流れる星にわたしの走る速度では追い付けないと、駱駝が思ったようだ。駱駝は張り切っていた。ブルブルがやけに大きい。飛沫が四方に散る。くすぐったさに、わたしは我に返った。蛍たちが目の前で激しく舞っている。

駱駝の背に乗った。わたしより駱駝の方が足が速かった。駱駝が笑っていた。

チロチロ…。あの時の音が、今に聞こえていた。チロチロ…。モーツアルトだ。しなやかなメロディーがわたしに届く。耳を澄ました。蛍たちがメロディーにリズムを合わしている。駱駝のブルブルがチロチロに重なっていく。チロチロ…。それは、銀河の中から聞こえる。あの時の、私の小川が銀河の中に見える。

少々の驚きだった。わたしは妻を探した。自然と手を伸ばしていた。手を伸ばせば、それは触れられるものだと思った。

 

 

夢の世界だった。私は妻の背に乗ったまま夢に揺れた。まったくの静けさにどっぷりと包まれた。暖かい日溜まりだった。あの湖の水面が縦に横に見える。何をも映し出す鏡の水面だ。水面に光が吸い寄せられていく。万華鏡を思った。私が万華鏡のひとつの色になっている。

美しかった。夢の深くへどんどんと誘われた。私が、いや、妻の歩みが一歩出る度に水面が微かに揺れた。日溜まりが揺れた。妻に話しかけた。重くないかい…。そう言ったものの、出来れば妻の背に乗り続けていたかった。重くないよな…。妻にわがままを言った。それが、無性に嬉しかった。幼さが楽しかった。

しばらく進むと、日溜まりがますます濃くなっていった。鏡の水面に歪みが目立つ。どうやら、鏡の湖を越えていくようだ。どこからか風が吹く。今まで受けたことのない風だ。私と妻の光にだけそよぐ。日溜まりの暖かさで、二人の光をつるりと撫でていく。微かに草の臭いがする。風が私たちを誘っている。心地よさが夢に揺れる私に柔らかい。風を掴もうとした。風は濃くなっていく日溜まりをゆるりと攪拌していく。光が私の前で舞う。チロチロ…。足下の私たちの小川の音にリズムを合わせている。

「交代…」

妻が笑った。当然だと思った。少し残念だった。しかし、妻を背負うのも悪くない。足が痛むこともないだろう…。私は妻の背から降りた。妻の光が陽炎にゆらゆら揺れた。口づけを交わした。軽く交わした。

「愛してる。あなた…」

日溜まりが私たちの中央で歪んでいく。周りの光が私たちに凝縮されていく。妻を背負った。重くない。黒髪が煌めきの艶を放つ。光の飛沫が妻に私に散る。仄かな髪の香りに、私は目眩を起こしそうになった。果てしなく妻が愛しい。妻の手を後ろ手に握りしめた。

「私も愛している…」

小川に映る私たちの姿が大きくなる。私たちが無限に見えた。妻が、私を背から強く抱きしめた。風が強くなる。意識に軽い音を立てる。さやさや…。意識が木の葉のように風に運ばれていく。風が信じられないほど私たちに優しかった。

 

 

思いが巡っていた。私は夢遊を続けていた。足下の小川だけが私に見えていた。それを、妻と眺めていた。私たちの思いが見えてくる。

「新しい雫が、この星を巡っている。新たな恵みに、雫たちが目覚めていくんだ…」

楽しい日々が小川に映える。側に父がいた。母がいた。そして、将来を誓い合った新妻がいた。私の過去が小川に形取っていく。

「私たちはまだ若かった」

思わず笑みが漏れた。小川に映える私たちの姿が美しい。

「あたしの若い頃…。そう、あなたも若いわ…。まだ、青いわよ…」

大笑いだった。二人の笑いが、私の夢遊に大きく揺れる。背に乗る妻が、私の頬を撫でる。くすぐったさに私の笑みが大きくなる。

私たちの思いがひとつとなる。二人して、小川に映える私たちの過去のひとときを眺め続けた。深い笑みを続けた。

「我々の光はこの星を越えていく。我々の成長は止まることをしない。更に、至高なる光へと我々は帆を張り上げた。ひとつだった光の時を、我々すべてが思い出したのだ…」

父の話を、青い私が聞いていた。テーブルに母の焼いたケーキが運ばれる。母がとびきりのの微笑みを見せている。私の側の新妻にケーキの作り方を教えている。新妻が嬉しそうに何度も何度も頷いている。

「この星も、我々のように成長を願っている。だから、我々とは異なる雫を求めた。我々は少し利己過ぎたのかも知れない。星を随分と傷つけてしまったようだ。しかし、星は我々との別れを惜しんでくれている。気付かないかい? 風が柔らかくなっただろう…。雨が優しくなっただろう…。雲が今までより白くなっただろう…。海が荒れることを忘れていくようだろう…。山が余分に酸素を出しているだろう…。地が暖かさを隠さなくなっているだろう…」

父の話が、よく理解出来ていた。それが心から嬉しい。

「気付かないかい?」

私は大きく頷いた。母のケーキがとびきりおいしい。それも、嬉しかった。妻が母と笑い合っている。本当は、それが一番嬉しかった。

「我々は優しさを取り戻した。我々と同じ光たちがそれを見せてくれた。我々は、物質である肉体を羽織った光だったのだ。それを、光たちが、我々の夢に蘇らせてくれたのだ。夢こそ、我々と光とを繋ぐ泉だったんだ。我々人類は、もう少し早くそのことを理解すべきであった…」

母も妻も父の話に耳を傾けている。私は妻の手を握った。肩を抱きたかったが、父や母の手前、それを控えた。母が父の隣に座った。

「すべての人が、そう、ただの一人の例外もなく変わっていった。光との触れあいは何をも魅了したんだ。当然だよ。我々の過去からの触れ合いだ。遥かなる思いが我々を変えていったんだ。いにしえに、この星へ飛んだ時の思いが、すべての人に蘇ったのだ。黒いエゴを持つ権力者も、それへ昇らんとする欲望者たちも、闇に暮らす哀れな者たちも、争いに身を置く若者も、財の魔力に取り憑かれた輩たちも、悲しみ故に激しい憎悪を胸に秘める人たちも、死へと進む老いたる人たちも、そして、お前たちのように未来への光が背に灯っている子供たちも…。すべてだ。すべての人たちが、光との触れ合いに胸を熱くしたのだ。すべてが、いにしえから吹く風を感じたのだ。この星へ飛んだ時の風を…。光だった頃の、汚れのない透明なる純白なる風を…」

父が熱くなっていく。私たちに、その熱さが伝わってくる。

「光は我々に伝えた。一人が二人の幸せを祈ろう…。そして、その二人が同じく二人の幸せを祈るように祈ろう…。私はそれに従った。いや、多くの人が、それを祈りそれを望んだ。光から受け取った愛はそうして拡がっていった。脱兎の勢いで全世界を縦断した。美しい触れ合いが絶えることなく続いた。その頃だよ、お前がこの星に生まれたのは…」

母がとびきり微笑みを続けていた。父が誇らしいのだろう…、私の顔と妻の顔を交互に見ている。いい笑顔だった。私の妻も、いつかは今の母のような笑みになる…。そう思ったら、思わず握った妻の手に力が入った。私も父の熱さに引き込まれていた。

「お前を見て私は驚いた。背に揺れる光が、私に、お前の思いを届けていた。お前は、この星最後の人類として生まれてきた。お前たちの世代が、我々のしんがりを務める。お前の光に、それが理解出来た。私は飛び上がるほど喜んだ。かーさんに涙を見られてしまった。ハハハ…」

私はケーキをもうひとつ頬張った。何か動きを起こさないと、私の涙まで側の新妻に見られそうだった。

「その通りとなったな…。お前たちの背に灯る光は、色褪せたりはしなかった。最後にこの星へ飛ん出来たお前たちは、まさしく勇気ある者たちだった。私はお前を誇りに思う…。心から感謝の念を送る…」

人類の終焉…。それは、もう誰も疑ったりはしていない。人類は新たな歩みを始めたのだ。いにしえの時のように、すべてがひとつになって未来へと帆を高く上げたのだ。父がおどけた調子で、私の妻に胸を張っていた。そんな父を、私も母と同じく誇りに思った。

「私は、死を恐れていない。しかし、正直に言うと、お前が羨ましい。お前は、死というものを経験することはない。光を帯びた者たちは、死を越えた存在なのだから…」

妻が、私の手を強く握り返した。死を越えた存在…。父のその言葉に、妻が敏感に反応していた。自らが選んだ道だ…。それを、大いなる喜びに思っているのだろう。私の意識に、妻が呟いていた。あなたに、ついて来て良かった…。

「死を恐れたりはしない。この星に、そう思う者などいなくなった。しかし、私はとことんまで生きてみたい。この星に、いつまでも抱かれていたい。終焉を迎えた人類の一員としてそう思う。母さんもそう言っていた…」

父が立ち上がった。嬉しそうに笑っている。

「森へ行こう…」

母も立った。父が、私の妻を見て小さく呟いた。息子を少々誉めすぎたかな…。私の妻が微笑みで首を傾げる。母が、それを引き継いだ。

「そんなことないよね…。あなたも息子と同じ、勇気ある選択をした美しい光よね…」

 

 

足下の、私たちの小川が大きくなっていく。私は舟を探した。純白な帆を立てた透き通った舟を探した。風が変わらずに優しい。溢れるような日溜まりが後ろへ遠ざかっていく。背の妻が少し動いた。前方を指差している。煌めく水面に純白なる帆が見えた。

「さあ、行こう…」

それへと進んだ。妻が背から降りた。二人して駆けた。水面に飛沫が上がる。煌めきに、それが透明なる彩りを見せる。妻の腕が私の胸に絡む。二人は走った。飛沫を大きく上げた。

「あたしたちの舟ね…」

舟は光の舟だった。純白の帆に、二人は目眩を起こしそうになった。今まで、この様な光を見たことなかった。輝きが二人の視界をはみ出していく。眩しさに、思わず目を閉じようとした。しかし、瞼が動かなかった。我が肉体が、その光に吸い込まれていく。

「光へ向かうんだ…」

舟に乗った。いや、光の舟が二人を包み込んだ。意識が軽くなる。光を心の奥で感じた。光を心で見ていた。私たちは光になっていた。

「さあ…」

妻を抱いた。光の抱擁だった。妻と私がひとつになっていく。光がゆるりと溶け合っていく。これ以上ない、これ以上望めない暖かさに包まれた。私たちの肉体が、私たちの光へと完全に消えていった。その幻を私たちが掴む。

風が強くなる。二人の純白の帆へそよぐ。抑えようがない。意識の中のワクワクが、私たちの光から限りなく散っていく。妻をより近くに引き寄せた。

「愛している…。愛している…」

妻も、同じ思いを同時にこぼしている。二つの思いがひとつに重なっていく。

「愛している…」

それが、旅立ちだった。私たちのワクワクが優しさの風に乗った。純白の帆へと二人は飛んだ。すべて光に包まれた。私たちの小川が、私たちを追いかけていた。

 

 

流れの星に追いついた。駱駝のブルブルが喜びをわたしに伝えている。光の蛍が無数に目の前に揺れる。伸ばした手に温かさを感じた。妻を思い浮かべた。やはり、手を伸ばせば妻に触れられたのだ。妻はわたしの中にいた。わたしは微笑みを駱駝に見せた。駱駝のブルブルが激しい。

存在の意味が、しっかりとわたしに形取っていく。銀河に浮かぶわたしのガラス瓶が、今までよりずっと大きく見える。流れの星たちが、ひとつひとつ目覚めていくようだ。それぞれの光に喜びが聞こえる。チロチロ…。流れの音が美しい歌を奏でていく。抑えきれない未来への思いが、銀河に破裂していく。さやさや…。吹く風に、光のすべてを晒していく。

わたしたちの銀河は、未来へと真っ直ぐに駆けていく。それぞれの星の微笑みが感じられる。風よ吹け…。風よ吹け…。そんな歌が星の間に拡がる。風よ未来へ…。風よ我々の希望へ…。銀河は駆けた。未来への歌が、そのスピードを上げていく。

わたしは駱駝から降りた。自らの足で銀河を走りたかった。側を流れるガラス瓶を流れから取り出した。瓶を手に乗せた。それは、今にも蓋が開きそうになっていた。わたしの幼さが、すべてわたしに戻ってきそうになっていた。わたしは再び過去に揺れた。あの時の、わたしの小川はどうなったのだろう…。駆けるわたしのワクワクは、そんなことを思っていた。

 

 

「これが、あたしたちの本当の姿…」

妻の一言が、私の微笑みを充満させた。繋ぎ合った心に優しさが流れた。

「これから、銀河を越えていくのよ…」

妻が天の果てをしっかりと指さしている。そこに、煌めきの銀河が揺れている。

「さあ…」

私たちは進んだ。遥かなる銀河が、私たちに惜しみない光を注いでいる。未来の光に見えた。希望の光が見えた。

「銀河に風が吹いている。星がその風にそよいでいく。見えるよ。星が歌っている…。明日への歌を、力の限り謳歌している」

限りなき興奮が私のすべてを包んだ。旅立ちに相応しい思いだった。私は続けた。未来への思いを大きく叫んだ。

「星が流れていく。あれが、私たちの存在の意味だ…。私たちは駆けるのだ。天の果てまで…。宇宙を越えて…」

熱い猛りが私たちに拡がる。私たちの光が星を追いかけていく。

「遥かなる空を越えていく。銀河は流れを収めることなどない。永久の歩みを止めることなどないのだよ…。見えるよ…。見える…。星たちの微笑みが…」

長く触れ合った青い星が、私の胸に、妻の胸に、その色のまま流れ込む。私たちの純白の帆に、その姿が陽炎に揺れる。

「あの星の雫だった。あの星の恵みだった。我々の成長だ。あの星で、遥かなる成長を遂げた…」

風が私たちの舟を未来へと運ぶ。星の流れが速度を落とす。私たちの舟を銀河が認めた。手招きが揺れる。周りの時が歩みを止めていく。時が私たちのに呟き掛ける。ゆるり、ゆるりと…。

「オーロラよ…」

眼下に風の流れが見えた。雲の行方を指示している。銀河の光が透き通った彩りを落としている。

「思い出すね…。あの星へ飛んだ時を…」

あの時も、美しいオーロラが見えた。青い星を青く優しく包んでいた。光を愛でるように風と戯れていた。

あれから、私たちは永遠の時を刻んだ。しかし、私たちはその時をも越えていく。時が、今、私たちに止まっている。私たちの、私たちの過去との別れを、時が優しく見守ってくれている。時も知っている。刻む時が形を変えていく。時が私たちの前を歩いていくのではない。未来は私たちが時を導く。時の歩む方向を私たちが築くのだ。それを、時が喜んでいる。

オーロラが拡がった。時の微笑みと風の呟きが、銀河から聞こえる。

「行こう…」

私たちの舟が銀河に乗った。時が、ゆるりと私たちの後を追う。星の光が私たちの道を照らしてくれている。風が時を急かした。私たちを急かした。

「君の色がはっきり見える。君は純白だ。透き通っている。赤でも、青でもない。君は君色だよ…」

銀河は私たちを受け入れた。私たちは私たちの星になった。存在のすべてが光に溶けていく。妻の光を強く私の光に握った。妻とはどこまでも一緒にいたい。

「あなたの色も見えたわ。あなたも透明。赤でも青でもない。あなた色…。純白な光の色よ」

妻を果てしなく近くに思えた。妻と私のふたつの存在が溶け合っている。それが分かる。妻の光が、私の光の中で熱く燃える。私の中へと、どこまでも押し寄せてくる。

私も妻の中へ進んだ。妻の光と私の光が透明に重なり合っていく。銀河の流れがそれを見つめる。

「存在の意味が見えるね…。私たちは、この瞬間を追い求めたんだ。我々の存在は我々の成長のためにある。成長こそ我々光が目指したものなのだ。光から、この星での姿になり、そして、再び光へと成長していく。更なる光の成長を求めていく。素晴らしい…。私は私を誇るよ…」

銀河の星たちが光を強くした。オーロラが再び見える。

「そうよ、私たちは、この星で涙というものを知った。悲しみも知ったわ。光にはなかったことよ。涙の中の暖かさ…。悲しみの時の熱さ…。心の奥の奥にまで響く存在の歌…。光を越えた意味よ。そう、悲しみに歌う魂の歌…。涙にこぼれる生命の猛り…。喜びに震える心の揺れ…。そうよ、それらが光を越えた意味…。それが、今のあたしには分かるわ…」

頷いた。私も同じ思いだった。

「あなた。もっと側に行っていい…」

口づけをした。私たちの光の中で互いの唇が触れた。

「あなた。愛してる」

唇が触れ合った瞬間、光が散った。妻の光だ。私の光だ。透明に純白に散った。

「私も愛している…」

妻を強く抱いた。重なり合った唇が光となる。一度散った光が私たちに戻る。愛が弾けた。

「あなた。暫しの別れね…」

そう、私たちは死というものを越えずに歩みを続けていく。それには、再び自らの力強い歩みで進まなければならない。妻とひとつの光になった。それが、私たちの道を切り開いた。妻の光が私の存在の中に同化し、私の光が妻に紛れた。その姿こそが、死を越えずに進む私たちラストランナーの光の形なのだ。強く深い愛に支えられ、私たちのそれぞれの個性は自らの歩みを続ける。銀河の果てまで自らの存在の帆を上げる。

「そうだね、少し寂しいけど…」

寂しくなんかなかったが、微笑みからそう漏れた。妻との再会は、そう遠いことではない。私はそれを知っていた。死を越えずに光となる。妻との再会は光の姿での再開となる。

二人の理解が優しさに重なる。いよいよ、この星との別れの瞬間が近くなったのだ。私たちはもう一度口づけを交わした。お互いの存在の中に揺れる光が勢いよく輝いた。

「振り返ったらダメよ、あなた…」

その意味がよく分かった。死を越えずに光へ進む。今進む道を振り返るということは、死へと落ちていくことになる。わたしたちの新たなる歩みには必要のないことだ。

「分かっているよ。大丈夫だ…」

二人の光が、開かれた未来への扉へとゆるりと向かう。二人の小川が、名残惜しそうに枝分かれしていく。眼下のオーロラが、静かに私たちの光より消えていく。

「あなた、ありがとう…」

妻のその声は私の中からした。妻の涙が私の涙として感じられた。

 

 

4.銀河を越えて

 

わたしは走った。風よ吹け…。風よ吹け…。何度も叫んでいた。駱駝が懸命にわたしの走りを追ってくる。駱駝より、わたしの方が走る足が速くなっていた。そのことが、わたしの幼さを一回り大きくしていた。わたしは星を跳んだ。星の下に小川が見えた。妻と二人で飛沫を上げた小川だ。それは、既に枝分かれしているものの、あの時のわたしたちが見えてきそうだった。流れの水面が透明に透き通っている。

走りを止めた。あなた…。わたしの中から何かが聞こえた。星の下の流れの音とそれが交わる。あなた…。妻の声だった。あの時の妻の声が、わたしの中でいつまでも木霊していたのだ。あの時のように、わたしの涙にそれはじんわりと染みわたった。

妻がわたしの中にいる。わたしは喜びを抑えられなかった。その場で飛び上がった。駱駝の肩を叩いた。ブルブルの唇に無理矢理に口づけをした。

そうだったのだ…。わたしはずっと妻と一緒にいた…。二人の小川が枝分かれしてから、わたしは闇を進んだ。いや、わたしの中を深く進んだ。

わたしの中に妻の光があった。風のない地で遥かなる思いに沈んでいた時も…、過去を振り返り自らの存在に揺れていた時も…、蛍たちの艶石を何度も銀河の果てへと投げた時も…。そう、すべて妻と一緒だった。

わたしは何度も星を飛び上がった。喜びがわたしの中の妻にも届いているのが分かる。妻はわたしの光となった。わたしは妻の光となった。妻の光がわたしと同化している。妻の存在は、この銀河のどこかにわたしと同じ歩みをしている。そして、わたしの光も、その妻の存在の中で揺れている。

更なる理解が弾ける。わたしたちは死を越えていない。妻とわたしが新たなる歩みを試しているのだ。それが、この形なのだ。存在のわたしが銀河を進む。そして、光のわたしが愛する人の光に同化する。存在が、時や空間を越えてひとつに深く結びついていくのだ。

私たちラストランナーの姿だ。わたしたちは光のまま銀河を越えていく。死というものを通り過ぎずに新たなる扉を開く。妻の中にも揺れるわたしの光が、再びわたしに戻り来る時、わたしが昇華する。わたしという光の存在の意味が果てしない理解となる。

わたしがあの闇を進んだのは、それへの理解への道だったのだ。自らを深く歩むことによって、光の愛への強い思いを掴む。そして、真実の光の姿を垣間見る。妻とひとつになった…。それは、わたしたちの存在に真実の光が照らされた瞬間だったのだ。その真実の光には限りない愛が存在した。その愛へわたしたちの光は進む。

そうなのだ。妻とわたしはそれぞれの流れを進みながらも、強く結びあっている。真実の愛に照らされた光が、お互いの愛をしっかりと抱き続けている。そして、再会の時に更なる理解が拡がる。光への道がはっきりと見えてくる。

わたしは喜びを抑えきれなかった。妻との再会を思いの中で楽しんでいた。

わたしたちは光となる…。愛の光となる…。そうなのだ。愛は存在をも越えていく。我々がひとつに結びついていくのは、愛の光の力だけだ。存在をも越えるのだ。すべてを、真実なる輝きに埋めていく。そうすれば、すべての我々の光がひとつに結びつく。理解を超えた愛がひとつに溶け合っていく。それが、いにしえのわたしたちの姿である。純白なる透明なる真実の愛の光となるのだ。

わたしは飛んだ。跳ねた。わたしの幼さがはち切れていた。

そんなわたしのはしゃぎように、とうとう駱駝が呆れてしまった。わたしに背を向け蛍たちを集めている。ブルブルが聞かれない。わたしは星を跳ぶのをやめた。わたしの旅に根気よくつき合ってくれている駱駝に悪い気がした。駱駝に小さく誤った。駱駝の拗ねたようなブルブルが無性におかしかった。

 

 

わたしは死を越えていない…。それへ思いを向けていた。心の余裕が、わたしにそんな思いを心地よく揺らせていた。

歩みを続けるべきだった。わたしはそれに気付かなかった。未来への喜びに、わたしはどっぷりと浸かりきってしまっていた。死という暗い影をわたしには見えなかった。わたしの弛みにそれはゆっくりと流れ込んでいたのだ。駱駝がそれを知らせてくれていたのに、わたしには全く見えなかった。死…。思いはそれへ向く。駱駝のブルブルが遠ざかる。

死…。それは、わたしの流転の中で数多くある。しかし、今のわたしはそれを飛び越えていく。それが果てしない喜びだった。意識にその喜びが木霊し続けていた。

わたしは死を越えていない…。死とは…。それへ向くわたしの意識が心地よい。妻の声が聞こえてくる。振り返ってはダメよ、あなた…。

死…。わたしにとって、それはどんな意味があるのだろう…。光への理解の入口にいるわたしに、その揺れは不思議なものだった。心地よさに、流転の中での死が蘇ってくる。死とは恐怖だったのではなかったのか…。悲しみに包まれていたのではなかったのか…。死の空間…。それは底のない闇だったのではなかったのか…。

振り返ってはダメよ、あなた…。妻の声がわたしに染み込む。しかし、その意味が少々ぼやけていく。少し前、完全に理解していた言葉がわたしの中で薄ぼんやりと霞んでいく。それでもよかった。それが不思議ではなかった。わたしは死への思いを続けた。

死…。それがわたしに迫り来る。不思議な思いへ更に落ちていく。光への扉がわたしから少し遠ざかる。それでも、わたしは死へ思いを向ける。それが不思議と心地よい。不思議が不思議を引き込んでいく。周りの明かりが闇を手招きする。振り返ったらダメよ…。その声も遠ざかっていく。

死への恐怖への恐れはなかった。悲しみへの思いは遠ざかっていた。不思議がわたしから離れない。闇にわたしが落ちていく。それも不思議ではない。

わたしは道を外れていく。それがわたしに分かっていた。しかし、闇に落ちる心地よさにわたしは揺れ続けていた。悔いの思いがわたしの意識の隅を微かに過ぎる。その残像にわたしが紛れていく。あの時の悲しみが一気に押し寄せる。

わたしは道を外してしまった。死への思いが、わたしを死の空間へと導いてしまった。死がわたしを魅了したのだ。妻の忠告をわたしは無視してしまった。死へと正面から振り返ってしまっていた。先程の至高なる喜びが一瞬にして消えていた。闇の恐怖がわたしに忍び寄っていた。

 

 

「息子は死にました…。交通事故です」

母が言い訳のように言っている。涙が見えない。もう涸れてしまったのか…。

「いい子でした。優しい子でした」

あの時のことだ。わたしはまだ十歳だった。

「本日はお忙しい中を、息子のために…」

わたしの葬式だった。母に嗚咽が漏れる。乱れた母の黒髪に大粒の雪が落ちている。今年も、長い冬が訪れているのだ。白い冬が…。

「息子のために…。本当に…」

わたしは叫んだ。かーさん、ぼくはここにいる! ぼくはここにいる!

「本当に、ありがとうございます…」

届かない…。わたしは母に体当たりした。母の持つマイクが小刻みに震えている。黒い車が冬の淡い日射しにも眩しい。

「ありがとうございます…」

妹も気丈に振る舞っている。母の袖を人から見えないように強く引いている。妹は五歳だ。妹も悲しみが分かっているのだ。小さな手を強く握りしめている。妹なりに懸命に何かを堪えている。それが、いじらしい。痛々しい。悲しみが抑えられない。

「息子は、空の果てで喜んでいると思います…」

理解していた。しかし、その理解は自らをはみ出ていた。わたしは何度も叫び続けた。ぼくは、ここにいる! かーさん! ぼくはここにいる!

「優しい子でした。妹思いでした。どこへ行くのにも、必ず、妹を誘ってやってくれていました…」

そこまで言って、母の頭が垂れた。堪えていたものが破裂した。母に大粒な涙が溢れた。漏れる嗚咽が激しくなる。

「ほんとうに…。ほんとうに、いい子でした…」

悲しみに気が狂いそうだった。わたしは悶えた。闇の中で必死に叫び続けた。

「かーさん! ぼくはここにいるんだ!」

母は、それ以上言葉を続けることが出来なかった。激しい嗚咽を涙とを繰り返すだけだった。わたしはその場を離れた。振り返った時に真っ白な鳩が、何十羽と空へ舞っていった。

 

 

「あなた、さようなら…」

妻の声がわたしの中に聞こえる。わたしは死を思った。悔いても遅かった。

「あなた、さようなら…」

死が真っ直ぐにわたしに押し寄せた。わたたしは、新たなる道を完全に踏み外してしまった。

「さようなら…」

わたしの中にある妻の光が消えていく。わたしの未来への扉が閉まっていく。悲しみが津波となってわたしを闇へと流す。

「あなたは振り返ってしまったの?」

そうだ。わたしは振り返った。過去のわたしの死を…。

「あなたらしいわ…。あなたは、何でも受け入れちゃうのね…」

妻の声が遠い。別れが現実となっていく。悲しさが膨れていく。

「どういうことなのだ…。わたしたちの新たなる道は…。新たなる道は…」

側の駱駝に問うた。駱駝は何も答えない。わたしの慌て振りに、眉間に深い皺を寄せている。

「さようなら…」

妻に言った。今、それを妻に告げないと、遅くなってしまう気がした。涙が一粒散った。

「さようなら。そして、ありがとう…」

妻の光が去った。冷たい風が、その瞬間に少しだけ吹いた。

「ありがとう…。そして、さようなら…」

 

 

悲しさに沈んだ。わたしは全くの独りぼっちになった。輝き続けていた銀河さえも、色褪せていく。駱駝に声を掛けることすら億劫になっていた。わたしは妻の思いに沈み続けた。なぜ、妻は私を出ていったのだ。時と空間を越えて進む…。わたしたちの新たなる歩みは、叶えられないものだったのだろうか…。

純白なる光へ…。それは、やはり果てしないものだったのか…。わたしたちの未来は、透明なる光だったのではなかったのか…。純白なる真実の愛の光へ…。それへと向かうのではなかったのか…。わたしの光は、どこへ向かおうとしているのだ…。

死…。それが、わたしの歩みを阻んだ。死…。それは、恐ろしいものだった。

わたしは、死という思いを意識から閉め出そうとした。しかし、それを思えば思うほど、死というものが身近に感じられる。わたしの流転の中で大きな位置を占めている。

悲しみが、わたしの光さえも包んだ。わたしが色褪せていく。蛍たちが何度もわたしを気遣う。彼らの光で、わたしの悲しみを溶かす努力をしてくれていた。わたしはそれを手で払った。蛍が離れていく。風がそんな蛍にだけ吹いた。

闇が訪れた。死の時の闇だ。先程より影が深い。銀河さえも消えていく。チロチロ…。流れの音が遠ざかっていく。

「助けてくれ!」

恐怖に押しつぶれそうだった。わたしは叫んだ。狂気の色がわたしを覆っていく。悲しみが鋭く意識に痛い。

「助けてくれ!」

声にならない。気が狂いそうだ。死が闇がわたしを包む。わたしの光が激しく歪む。未来への思いが音を立てて軋む。闇の色が弾ける。わたしの中をどこまでも弾ける。雷鳴が被さる。わたしは走った。闇から逃れたい…。その一心だった。

「助けてくれ! かーさん! 助けてくれ!」

 

 

銀河が消えた。蛍も駱駝もいなくなった。恐怖だけがわたしの側にいた。わたしは恐怖に向かい合っていた。恐怖に闇に素早く馴染んでいく。

「お兄ちゃん…」

あの時の妹だ。わたしはこの妹が好きだった。名が思い浮かばない。あれほど好きだったのに…。どうしたのだ…。

「お兄ちゃん。どうして、死んじやったの?」

葬儀の日と同じ表情だ。小さな手を強く握りしめている。

「どうして、どうして…」

わたしは妹を抱いた。わたしの中の幻が目の前の闇に揺れた。

「妹よ…。お兄ちゃんは、お前が大好きだよ…。今度、魚釣りに連れていってあげる。春になって、雪が溶けたらね…」

嘘だ…。嘘だ…。わたしに春など来ない…。

「春になったらね…」

それでも続けた。妹の悲しみが健気すぎる。

「この雪、積もるね。また長い冬だ…。そうだ、葬式が済んだら雪だるまを作ろう…」

嘘だ…。嘘だ…。嘘が積み重なっていく。

「雪だるま…」

わたしの嘘に妹が飛び跳ねた。握りしめていた妹の小さな手が、その瞬間に開いた。手のひらから、わたしが大事にしていた真っ白な貝殻がこぼれ落ちた。妹がそれを素早く拾った。悪戯を見つかった時の幼さが妹の面に浮かんでいる。

「それ、お前にあげるよ…。おととしの夏、行ったろ…。父さんが死んだ海。そこで拾ったんだ…」

更なる悲しみが押し寄せた。父は厳冬の荒波に死んだ。父は出稼ぎの漁師だった。

「お兄ちゃん、それより、もう一回だっこして。もう一回だけでいいから…」

抱いているだろう…。今、お兄ちゃんは、お前をだっこしているだろう…。妹を抱く手に力を入れた。揺れていた幻が激しく歪んだ。

「お願い。お兄ちゃん、だっこして…」

同じ思いだった。葬儀の日、母に体当たりした。同じ思いだった。わたしは妹を腕から離した。悲しかった。悲しさを堪えきれない。

「今度ね。春になったらね…」

わたしは妹から目を逸らした。妹の涙が、わたしの意識のあらゆる層に激痛を流し込む。

「お兄ちゃんのバカ!」

それでも、妹はわたしから離れない。妹よ…。お兄ちゃんは、死んだんだよ…。もう、お前の側にいてやれないんだよ…。

「お兄ちゃんは、トラックに跳ねられたの?」

不憫だ。堪らない。抱いてやりたい。強く強く抱きしめてやりたい。

「トラックに跳ねられたの? それとも、戦場で殺されたの?」

戦場…。なんということを言うんだ…。お兄ちゃんは、戦争なんか行っていないよ…。

「やっぱり、戦場で殺されたのね…。だから、言ったのよ。逃げようって…」

どこかから、機織りの音がする。妹が後ろを向いた。音の方へ向いた。

「あたしも死ぬわ。敵兵が、もうすぐ押し寄せてくる」

もう一度、幻が激しく歪んだ。わたしは機織りの音の方へ歩いた。気のせいか、幼子の泣き声がする。わたしを呼んでいるように思える。

「この子も一緒よ。あたしは、あなたの所へ行く…」

機織りの音が止んだ。女の嗚咽が漏れ聞こえる。

「あなたの所へ行く…」

何ていうことを言うんだ…。だめだよ、お兄ちゃんの所へなんか来てはいけない…。そんなことを言ってはいけない…。わたしは機を織る女の肩に手を掛けた。

「あなた、あなたを愛していた。あなた、あたしも死ぬわ…」

女の肩を思い切りこちらへ引いた。ダメだ! 死ぬなんて思ってはダメだ!

「あなた…」

女に変化は見られない。やはり、わたしの手は女の肩を素通りしていた。どうしてだ…。どうして思いが届かない…。

「あなた待ってて。そちらへ行くから…。この子も一緒よ…。お兄ちゃん待ってて…」

妹が幼子の首に手をやった。泣き声が大きくなる。ダメだ! 放せ! その子から手を放せ!

「ダメよ。やっぱり出来ない…。あたしには出来ない…」

思いが届いたのか…、いや、そんなはずはない。幼子の泣き声が続いている。

「あなた、なぜわたしを置いて…」

女を抱いた。幻を抱いた。わたしは泣いていた。激しく泣いていた。

「お兄ちゃん!」

女が振り返った。妹だった。妹にあの日の表情が戻っていた。

「春になったよ。魚釣り連れていって…」

わたしは気を失った。妹の作った雪だるまが、ちらっと意識の中に揺れた。悲しすぎた。

 

 

依然、闇の中だった。わたしは泣き続けた。風を冷たく感じた。わたしは立ち上がった。闇でもいい。とにかく歩こう…。この場を離れよう…。

涙に闇すら霞んだ。歩みが重い。一歩ずつ、底なしの沼に落ちていく。冷たい風も遠ざかる。漂う闇に鈍い重さを感じる。黒い雪の上を歩いているようだ。恐怖と道ずれだ。背が震える。脅えが震えに寄りかかる。恐れが震えを笑う。わたしを笑う。それでも、わたしは歩いた。

しばらく進むと遠くに山が見えた。闇が、そこだけこんもりと盛り上がっている。わたしは山を目指した。沼に落ちていく感覚に耐えきれなかった。少しでも空の方へ…。別の風がその山から吹いているように思った。

友は一体どこへ行っただろう…。駱駝。蛍。探したとて無駄なのは分かっていた。しかし、風を感じる度にその方に向いた。友を探した。

その時、背中に激痛を覚えた。鋭い剣だと分かった。わたしは振り返った。二の手が来た。わたしの腹をそれが切り裂いた。

「ウオー!」

悲鳴が闇を裂いていく。紫の雷光が駆けた。わたしが戦場にいた。

「ウオー!」

雷鳴が近くに轟く。稲妻が頭上に炸裂する。必死だった。敵がわたしから離れない。わたしは肘を突き立てた。わたしは剣を持っていなかった。しかし、手応えがあった。敵にうめき声が漏れたように思った。

「ウッ!」

一瞬、敵が怯んだ。それを逃さない。わたしの中の狂気が目を覚ました。わたしは跳ねた。驚くほど身が軽くなっている。先程の重さが嘘のようだ。わたしの蹴りが敵の腹に入った。

「ウオー!」

わたしの中を獣が激しく暴れまくっていく。血の匂いがする。敵の首筋をわたしは思いきり咬んでいた。

「ウオー! ウオー! ウオー!」

それまで一瞬の出来事だった。血の匂いに乳の匂いが混じった。わたしは空腹を思い出した。母を探した。口が寂しい。乳が欲しい。甘い匂いが懐かしい。

「ウオー! ウオー!」

わたしの悲鳴が母の悲鳴に変わる。瞬時の理解がわたしに押し寄せる。そう、あの時の再現だ。あの時の母の死が、わたしの中に渦巻いていく。歪んだ時がわたしを包み込んでいく。

「ウオー! ウオー!」

雷鳴が激しくなっていく。母の悲鳴がかき消される。わたしは母に寄ろうとした。しかし、出来なかった。母が、わたしの闘いを引き継いでいたのだ。

巨体な敵が母を羽交い締めにする。わたしは乳が欲しかった。だだ、乳が欲しかった…。

「ウオー! ウオー!」

母はよく耐えた。わたしを守る一心だ。心が震えた。そんなにしてまでわたしのことを…。母を助けたい。そして、乳が欲しい。

「ウオー!」

力尽きた。母が倒れた。敵の身体の下に、毛むくじゃらの母の顔が見える。目が微かに光っている。わたしを見ていた。悲しそうだった。わたしに詫びていた。

「ウオー!」

敵が去った。わたしの方をちらっと見ていた。敵も傷ついていた。鮮血に額を染めていた。母の闘いがわたしを救ったのだ。敵がわたしから遠ざかった。

母が目を閉じた。わたしは走った。いや、四本の足で母の方へ這って行った。

「……」

母が死んだ。乳が欲しい。わたしは喚いた。空腹が我慢出来ない。母の乳をしゃぶった。懸命にしゃぶった。いつものように乳が出てくるものだと思った。

どうして? どうして乳をくれないんだ? わたしは訴えた。どうしても、いつもの暖かい液体が口の中に拡がらない。どうしてなのだ…。

それが死だった。その時に、それを知った。

猛烈に悲しかった。母の死が信じられない。母を揺すった。母が動かない。なぜ、どうして動かない…。わたしは泣いた。乳を求める泣き声ではない。悲しみの叫びだ。

「ウオー!」

悲しみが、わたしの中に果てしなく拡がった。母との別れだ。二度と会えない。二度と、あの甘い乳を飲むことは出来ない。腹の痛みも忘れていた。母の側で、わたしはいつまでも泣き続けた。

 

 

死の悲しさだった。振り払うことなど出来ない。重い足がもつれる。悲しみだけに、どんどんと沈んでいく。どうすることも出来ない。わたしは、ただ歩き続けた。山が少しずつ近くなっていた。

このまま、存在がなくなってしまえばいいと思った。あの頃の死の理解と同じだ。戦場で倒れる。自らの存在が跡形なく消える。更に、わたしを愛してくれた者たちもいずれ死を迎える。わたしの欠片すら消え去る。その繰り返しだ。今、闇に沈んでいるわたしは、その時を迎えようとしている。死と死の間を漂う闇…。わたしを包む闇に、そう思った。

しかし、それが間違いであることを、わたしは意識の奥で知っていた。だから歩き続けた。わたしは自己と闘っていた。信じた未来が色を失っていく。だから、わたしは闇を歩き続けた。

悲しみの涙…。やはり、それも熱いものだった。いつか妻が言った。あたしたちは熱い涙を知るためにこの星へと飛んだのよ…。心では分かっていた。しかし、周りの闇に、その言葉が心にまで響かない。涙は熱かった。確かに熱かった。それが、どうしたんだ…。

人々は死を越える。当然だ。わたしたちの肉体は永遠のものではない。いつかは朽ちる。その時が別れだ。愛した人たちと別れる。共に生きた者たちと別れる。自らのその時の生と別れる。

それは、悲しいことだ。その涙は熱い。二度と触れ合えない。愛を伝えられない。悲しみがすべてを包む。そして、時が経つ。悲しみの別れが徐々に風化する。それが更に悲しい。なぜ、わたしたちは悲しみの星へと降り立ったのだ…。光の姿を脱いだ。なぜ…。それは、間違いだったのだろうか…。

この星で、数多くの触れ合いを経験した。それが、わたしたちを大きくした。成長へと導いた。しかし、大きくなって何になるというのだ…。成長にどんな意味があるというのだ…。今のわたしには虚しさだけがある。この闇に消えていきたい…。

恐怖が少しだけ去っていた。未来への不安に、諦めが被さったのか、自己への嫌悪の方が光を思うより優しかった。その方が心地よかった。恐怖が少しでも優しかった。

歩む足に力が失せていく。山へ向かうことが意味のないものに思える。わたしは腰を下ろした。闇に浮かぶ小さなわたしの椅子だ。真っ黒な椅子が、わたしの重みにゆるりと下降していく。

どこまでも落ちる。死だ…。あの時も、そうだったように思う。トラックがわたしを跳ねた。一瞬の激痛の後、気づいたのは闇だった。今のような闇だ。どこまでも沈んだ。闇の海の微かなうねりに身を任せた。確かそうだった。恐怖より諦めの方が大きかったと思う。

闇の底は無がある。虚がある。空がある。いや、それすらない。何もない。誰もいない。

そう思うと、わたしが薄くなっていった。黒い椅子に腰掛けたのがよかったのか、わたしは無を受け入れようと思った。虚に紛れようと思った。空に包まれようと思った。いい知れない安堵だった。わたしがなくなる。いいじゃないか…、ただそれだけのことだ…。わたしは微笑んだ。そして、微笑みのまま黒い椅子の上で眠った。

 

 

夢だ。不思議だった。わたしは、なくなったはずではなかったか…。

夢だ。不思議だった。夢と分かっていた。夢の中で覚めている。

青い星が見える。地球だ。我々の星だ。真っ青に澄んでいる。美しい。

「あなた、もう一度、あの星へと飛ぶのよ…。最後の旅ね…」

声がする。誰だろう…。見えない。聞いたことのある声だ。

「あたしたちが最後よ。しんがりなのよ…。あたしたち光は、あの星を星へ返すのよ…」

言葉を理解出来ない。声が近くになる。

「無数のあたしたちの光が、あの星に降り立ったの。光の姿のまま…。星の波動が、光に近くなってきたのよ…。いにしえには叶わなかった、あたしたち光は成し遂げたのよ…」

分からない。あたしたち光…。一体どういうことだ…。

「星に住む人々が、あたしたち光の訴えを聞いてくれたの…。どんな、訴えか覚えている?」

そんなこと、知るはずがない。声の方へ振り返った。やはり、誰もいない。

「人は、すべてあたしたちと同じ光…。愛の光…。いやね、そう訴えたのよ。覚えていないの…」

煩わしかった。夢から出たかった。わたしは耳を覆った。これ以上、何も聞きたくない。

「あなたも、あたしも、そう訴えたのよ…。忘れちゃったの…」

そうだ、忘れたんだ! わたしは叫んだ。どうでもよかった。闇を探した。声から離れた。

「星の人たちすべてがあたしたちを理解してくれた。当然よ。みんな、同じ光だったのだもの…。嬉しいわ。再び、遥か過去の光の姿に戻れるの。すべての光たちとひとつに揺れるのよ…」

声が離れない。夢よ消えろ! それは悲鳴だった。恐ろしい。声がわたしの夢を破壊していく。闇へ向かいたいわたしを狂気へ誘う。やめてくれ! お願いだから、やめてくれ!

「あたしたちは選ばれたの。大切な任務よ。光たちの果てしない思いが、あたしたちの背に光るの。白く透明な光。ほら、見えるでしょう…。あなたの背中にも、それが見えるわよ」

やめろ。光など見せないでくれ。闇が遠ざかっていくだろう…。

「いい色よ。あたしの色と同じ」

気が狂いそうだ。わたしの背に光が見えるだと…。やめてくれ…。お願いだ。やめてくれ…。

「人々は、死を理解しようとしたのよ…。光を理解したから、存在の意味が見え始めたの。死を、恐れなくなった。それは、未来へのステップだと知ったの…。光たちの言葉を人々は心から信じたの」

死を理解? そんなこと出来るはずがない。死は闇だ。ただ、闇に落ちていく。未来などない。その先には無がある。虚がある。空がある。

ああ、そうだ。無だ…。虚だ…。空だ…。

そうなのだ、わたしは夢を見ているのだ。わたしはこのまま無に落ちる。虚に入る。空に包まれる。もういいんだ。これは夢だ。

「もう、話はいいよ。それより、あの星へ飛ぶのだろう。早く飛んでいっておくれ…」

どうってことない。夢だ…。夢だ…。わたしは微笑んだ。そういえば、夢に落ちる前も、わたしは微笑んでいたのではなかったか…。黒い椅子の上で…。

「分かったわ。あたしから飛ぶね…」

聞き分けがいい。わたしの笑みが大きくなる。

「じゃあ、これを返すわ。あなたの宝物。忘れちゃダメよ…」

声に頷いた。声が遠ざかった。わたしはほっとした。これで、悪夢から覚められると思った。闇に戻れると思った。わたしは声の残した物を見入った。わたしの手の上で、それは小さく煌めいていた。

ガラス瓶だった。どこかで見たことのある透明なガラス瓶だった。

 

 

わたしは夢から覚めた。手に握るガラス瓶が、わたしの意識を軽く擽った。

ガラス瓶…。それを感じる度にわたしの降下が停止した。沼を沈む黒い椅子が何かに引っ掛かる。ガラス瓶を捨ててしまおうと思った。しかし、それは出来なかった。ガラスの中のものに、わたしは徐々に惹かれていった。わたしの求めているもの…。無? 虚? 空? それが瓶の中にあるのか…。瓶にわたしが惹かれていく。

黒い椅子を立ち上がった。闇は変わらずに深かったが、遠くの山が近くに見えてくる。天に雲が過ぎていく。頭上に微かに星が揺れている。不思議と、恐怖が少しずつ消えていく。背に感じていた震えがなくなっていく。

闇が揺れた。わたしは歩みを開始した。腰掛けていた黒い椅子が、独りでに底なしの沼に沈んでいく。わたしはフワフワと闇に浮かんだ。静けさを思った。わたしは静寂に包まれた。

ガラス瓶を振ってみた。音がした。乾いた音が静けさに優しく流れる。やはり、どこかで聞いた音だった。貝殻…。妹にあげた貝殻…。いや、少し違うような気がする。

わたしは歩いた。歩いてどうなる…。そんなことは考えなかった。足は重いがとにかく歩いた。意味なんてなかった。時はいくらでもある。ただ、そう思っていた。

しばらく進むと、わたしが片足を引きずっているのに気付いた。あの頃と同じだった。毛むくじゃらの肉体を持っていた頃…。冬になると、それが痛んだ。この闇にも冬は来るのだろうか…。不安が、再び鎌首をあげた。しかし、わたしはそれを無理に押さえ込んだ。まだ、無を思っていた。虚に思いを向けていた。空に揺れていた。冬が来る前にそれへと入る。足の痛みもそれまでの辛抱だ。わたしは歩き続けた。

歩む地が坂道になった。引きずる足が恨めしい。上り坂は苦手だ。痛む方の足の負担が増えるのだ。わたしは肩を揺らした。そうすると足がうまく運べた。

そのことが、わたしを再び自らの奥深くへと誘導した。肩を揺らす度に、手に持つガラス瓶から音がした。闇に相応しい乾いた音だった。わたしはその音に意識を向けた。音にリズムがあった。わたしの歩みのリズムだった。

音につられた。音は闇の中へ静けさ調べを流し続けた。巡礼の鐘だった。わたしはその鐘の音と共に進んだ。わたしの奥深くの心音とそれを重ねた。鐘の音は無へ向かっている…。虚への思いがその調べに乗っている。空へ音が響いていく。そう思った。音が心地よかった。わたしは少し軽くなっていた。

これが、死なのかも知れない…。鐘の音がわたしの存在に何かを語りかけてくる。死とは…。その理解がさざ波となる。死とは自らとの対話だ…。時がわたしたちの存在に最も優しい瞬間だ…。己の深くと正面から向き合う。その瞬間は時をも存在しない。いや、時がわたしたちから隠れていくのだ。優しく見守るだけの存在になるのだ。

鐘の音がわたしにだけ大きくなる。時が静けさに見えなくなっていく。わたしの歩みを遠ざかっていく。死は自らとの対話…。自らの浄化を促す…。そんな思いが拡がっていく。わたしは少し歩みを遅くした。鐘のリズムが少し早いような気がした。

わたしの理解が進んでいく。死とは、透明なる自らと向き合うことだ。自らの光を記憶の中に手探りすることなのだ。わたしたちの記憶は時の狭間に埋もれている。幾重にも積み重なった時の層に染み込んでいる。その光の記憶は、死の瞬間にだけそれぞれが同時に蠢くのだ。時がわたしたちから隠れた瞬間にだけ、幾重もの自らの時が姿を見せるのだ。

枯れ葉は土へ帰っていく。恵みだった頃へと戻っていく。時はそれを優しく見守る。再び土から雫へと浄化されるまで、時は優しさを見せ続ける。過程に入らぬ手出しはしない。それらのものから身を潜めている。朽ちたものが天に昇る。雫となり地へ落ちる。そして、地を這い恵みとなる。時はその巡りに交わりはしない。優しさだけを照らし続ける。

時にはそれが見えるのだ。だから、死の瞬間は死の空間より遠ざかる。そうなのだ。今のわたしに時はあまりにも優しい。少し離れて静けさだけを運んでくれている。死…。今、わたしはその瞬間に流れようとしている。時がわたしから隠れていく。

今までの思いが消え去っていく。無などない。虚などない。空などない。時がそれらを隠している。いや、それらは時の領域なのだ。時のないところにそのようなものは存在しない。無などない。虚などない。空などない。わたしたちの意志で、それに触れることなど出来ないのだ。

死の瞬間にだけ時が隠れる。時が優しさを照らす。その間にわたしたちの光は浄化する。時を越えた自らと対話を果たすのだ。わたしたちの光を蘇らすのだ。そして、光は死を越えていく。更なる未来への道標を見付けて…。

それがわたしたち光の流転の形だ。いにしえに、わたしたちは時と約束したのではないだろうか…。時の協力がなければ、わたしたちは未来へは進んでいけなかっただろう…。わたしは歩みを止めずにそんなことを思っていた。時が隠れていくのを拒んでいた。

わたしたちの未来は時そのものなのではないだろうか…。ふと思った。その時に、ガラス瓶から光が漏れ始めた。わたしは時を離さなかったのだ。ガラス瓶の光がわたしの歩みを急かしていた。

ガラス瓶から漏れた光が、静かにわたしの周りを揺れ始めた。時が、少しだけわたしの理解に喜びを見せてくれている。光の揺れは時がもたらす。光が時を待っている。だから、わたしは死へ流されていかなかった。時がわたしから見えなくならなかった。

時が光と会話する。次々と、ガラス瓶から光が漏れる。それぞれの光が目覚めの色を見せる。光が雫となっていく。わたしの意識に光だった頃が鮮明に蘇る。

光の雫が舞う。漏れる光が後を絶たない。光が闇を攪拌していく。光はわたしを誘った。光が時を道連れにわたしが目指していた山に向かっていく。わたしは手を伸ばした。光を掴みたかった。時を掴みたかった。手を伸ばせば、それを掴めると思った。

時が形を変えたのだ。無なる風を優しさの風に変えたのだ。虚なる風を緩やかさの風に変えたのだ。空なる風を未来への風と変えたのだ。わたしは山の頂に立った。わたしは光を掴んだ。時を掴んだ。頂で大きく伸びをした。星明かりが思いよりも濃く見えた。足の痛みがなくなっていた。

光がそのまま天へと昇る。時を越えていく。それぞれが思い思いの色を見せる。自由だった。光は自由だった。駆けていた。光の躍動がわたしにも伝わる。生命を感じた。光はすべて生命を抱いている。熱い思いが揺れる。輝け! もっと輝け! 光たちがそう歌っていた。

雫が輝きになる瞬間だ。わたしたちが夢で戯れたのと同じだ。あの時の夢がわたしの目の前で繰り広げられている。時だ…。時がそれを見せてくれているのだ。時は知っていた。わたしたちの夢を…。時と光の会話にわたしも入ることを許された。わたしも歌った。輝きを! 更なる輝きを!

これがわたしの死だった。光であるわたしたちの新たなる死の形だった。

光が無限に舞った。お互いの生命の色を闇に放った。それは、やはりあの頃の夢そのものだった。頂が光に包まれていく。光の踊りが美しい。自由の舞だ。色が色を無限に受け止めていく。その瞬間、新たなる色が更に無限に弾ける。純白に煌めく。雷光よりも激しい。生命の奇跡の光だ。美しい。限りなく美しい。わたしは惹かれた。心の奥からの感動がわたしに生命の震えをもたらす。

光たちがひとつに集まっていく。天の中央へと歩みを向けている。一糸の乱れもない。美しい調和だ。それぞれが秩序整然と進む。同じ目的に見える。天の中央が光たちの故郷だ。光たちは故郷でひとつになる。輝きが増す。闇が失せていく。

わたしたち光の成長の形だ。わたしたちは光を飛んだ。そして、果てしない成長を遂げて再び光へと戻る。その形だ。その形を、光たちが今のわたしに見せてくれているのだ。わたしにはその理解があった。喜びが爆ぜていく。

わたしも光の中に入った。ガラス瓶を天高くかかげた。わたしに見える光は、わたしの新たなる歩みに出会った光たちだ。それは、わたしの中に存在する光だ。わたしの思いが、この空間で形となったのだ。そう、光たちはわたしの光なのだ…。光たちの故郷はわたしなのだ…。そして、光が眠る場所がわたしのガラス瓶なのだ…。

時との会話にそれを知らされた。そう思った。わたしは、出来る限り手を高く挙げた。光の歌が高らかに聞こえる。頂に風が吹く。時が風をわたしに運ぶ。わたしは低く呟いた。

「未来へ…」

それが合図になった。天の中央に集まった光が凝縮していく。各々の色を光に抱き込んでいく。光が収縮する。輝きが大きくなる。光源が輝きに隠れていく。

「未来へ…」

すべての色が消えた。光たちはすべて純白となった。わたしが光へ吸い込まれていく。ガラス瓶がわたしを急かす。時が送る風が強くなる。わたしに時が別れを告げている。

「ありがとう…」

時が頷いた。わたしにはそれが見えた。消えていく闇の中に、時が青い星を映し出していた。

「ありがとう…」

星の未来に、時が変わらずに優しいことを祈った。時が消えた。いや、わたしが時から去った。

無限の光源へわたしは入った。涙に包まれた。暖かい。信じられないほど暖かい。わたしは微睡んだ。ゆっくりと、光がガラス瓶の中に流れ込んでいく。わたしの新たなる歩みの再開だ。光が窮屈そうに瓶へ入る。

その蓋を探した。しかし、それは無駄なことだった。蓋は、既にわたしの側にあった。あの駱駝…。そう、わたしの友が煌めきの蛍たちを口にくわえていた。

 

 

駱駝のブルブルが今までにないほど大きい。喜びが素直にわたしに届く。どこへ行っていた…。そんなことを言っているのかも知れない。駱駝に詫びた。駱駝の舌がわたしの頬を何度も上下した。

銀河に戻っていた。大きく迂回したのかも知れない。流れがかなり大きくなっている。星の飛び石に掛かる飛沫が穏やかになっている。飛沫を手ですくってみた。艶やかな清水だ。故郷を思った。

ガラス瓶を流れの中に置いた。わたしは知っていた。それは、わたしを離れていくことはない。わたしの光がぎっしりと詰まった瓶だ。流れの中からわたしを見守ってくれる。わたしの新たなる道の道標を務めてくれる。瓶の蓋の蛍たちを信頼した。蛍たちは光をこぼしたりない。

風を探した。流れの真上にあった。既に、駱駝がその風に乗っていた。微笑みが拡がった。駱駝はわたしの方を見ている。自慢げに首を大きく上下させている。ブルブルが届く。星の飛び石がわたしを弾き飛ばした。

わたしも風に乗った。駱駝の首を撫でた。ブルブルが止まらない。わたしも、それを真似た。

「ブルブル…。ブルルル…」

闇を落ちていた時が嘘のようだった。足が軽い。心が軽い。駱駝の背に乗った。視界が、果てしなく拡がる。数々の星座が見えた。牡牛座。オリオン。双子座。一角獣。おお犬座。どうやら、流れは南へと進んでいた。先に一際明るいシリウスが見える。銀河はそれへと流れていく。神々の時代の宇宙を思った。果てしない空の神の姿を思った。無限の拡がりがわたしの中を駆ける。

左手に牡牛座を見た。ひとつの星が六つに見える。

「アルデバランだ…。すばるだ!」

わたしは大きく叫んだ。牡牛の右目に六つに光る星が煌めく。惹かれた。しばらく見付めた。六つの光がひとつに揺れる。神の意図を感じた。調和の美しさだ…。愛だ…。星たちの光も愛で結ばれていく。いまにも、その目から星の雫が落ちてきそうだ。熱い涙…。わたしたちが知り得た最も至高なもの。それが、すばるから滑り落ちそうだ。

そう思うと、わたしの目から涙が垂れた。すばるが霞んだ。駱駝に見られていた。構わない。もう一度、駱駝の真似をした。

「ブルブル…。ブルルル…」

涙を腕で拭った。視線を右に向けた。双子座が浮かんでいた。

「カストルとポルックス…」

星が仲良く寄り添っている。妻を思った。自らの中にいる光の妻を強く思った。

その時、双子座から流星が弾けた。次々と星たちが天を馳せていく。双子座流星群だ。子供の頃、父に教わった。流星群とは、彗星の散らした小さなチリが地球の大気に摩擦された光なのだよ…。特に、双子座から飛び出す流星群は、流星群の中でも一番その数が多いんだ…。父の声を思い出していた。星が放射状に駆けめぐるんだ…。もの凄い数だよ…。感動するよ…。宇宙に抱かれた思いになるよ…。父はわたしの肩に手を掛けそう言った。父の手は少し震えていた。

宇宙に抱かれた思い…。まさしく、今のわたしだった。流星は留まることをしない。火球も混じる。火球は小惑星の欠片だ。輝きを誇るように天を馳せる。わたしは手を伸ばした。それを掴めそうに思った。しかし、届かなかった。

「少し、手が短かったね…」

妻だ。妻がわたしに戻った。別なる駱駝に乗っていた。雌のようだ。目が愛らしい。

「おかえり…。おかえりは少し変かな…」

存在同士が再び触れ合った。互いの光をそれぞれ胸に抱いたまま…。妻の中にあるわたしの光がその瞬間に大きく輝いたのが分かった。

「ガラス瓶が遠ざかって行くわよ…。オリオンを越えて行くわよ…」

妻の駱駝のブルブルも、わたしの駱駝に負けずに大きかった。妻の駱駝の方が唇が厚かった。

「行こう…」

妻の手を取った。わたしの中の妻の光が熱くなった。

「あなた、愛してる…」

妻がわたしの頬に軽く口づけた。わたしの駱駝が妻を睨んでいる。

「わたしも愛してる。限りなく愛してる…」

銀河の流れが心持ち速くなった。妻の駱駝にわたしの駱駝が微笑んでいた。いい気なものだ…。ブルブルが少しだけ上品になっている。

 

 

いよいよだ。銀河を越えていく。駱駝が立ち止まった。駱駝は神に返そう…。妻にそう言った。妻は笑った。駱駝座なんてなかったね…。妻の微笑みが透き通っていく。

シリウスが近かった。ガラス瓶が、シリウスの光を精一杯浴びて水晶の輝きを見せている。蓋の蛍たちがわたしを見ている。中の光が弾けるよ…。蛍たちの叫びがわたしに届く。

駱駝を降りた。足下に星の飛び石を探した。見付からない。シリウスの光に星が隠れている。眩しさに星が紛れてる。

「大丈夫よあなた、落っこちたりしないわよ…」

妻の言う通りだった。飛び石などに乗らなくてもよかった。無数の蛍たちがわたしたちを持ち上げてくれていた。

駱駝がわたしに別れを告げる。ブルブルが馬鹿でかい。神の元へと戻れるのを喜んでいる。わたしも嬉しくなった。駱駝にキスをした。駱駝が頷く。うっすらと目に涙を溜めている。蛍たちが駱駝との最後の戯れを楽しんでいた。

「ありがとう…」

その時、風が吹いた。今までとはまったく違う風だった。シリウスの果てからそれは吹いた。

「この風だ!」

この風だ。光だった頃、受けていた。光にだけ吹く風…。

「あなた!」

妻の熱さがわたしに溶けていく。白い風だ。その色が見える。風はわたしたちの光の帆に吹く。銀河を越えていく。風が誘う。いにしえの風がわたしたちに蘇った。

「行こう…」

ガラス瓶を手に取った。妻の肩を抱いた。蛍たちが離れる。

風に未来を感じる。時が異なる動きをしている。妻の呟きが聞こえた。

「みんなが呼んでる…。銀河の向こうにあたしたちを呼んでいる…」

シリウスを越えた。ガラス瓶も風をしかと受け止めている。瓶の中で光たちが爆ぜている。蓋の蛍がもがいている。

「すべてひとつになるの…。風が歌っているわ…。光の歌が聞こえるわ…」

銀河の果てに光が踊っている。わたしたちの光がリズムを奏でている。故郷がある。光の世界だ。愛の光だけが喜びを謳歌する、我々の未来だ。

我々の光は永久の成長を掴んだ。青い星に存在の理解を学んだ。そして、新たなる未来を目指す。いや、未来を構築していく。銀河を越えて、再びひとつの形へと戻る。ガラス瓶の光にそう訴えた。光の爆ぜが激しくなる。蛍の蓋が弾き飛ばされた。

「ウオー! ウオー!」

わたしも爆ぜた。妻を引き寄せる。妻とひとつになる。妻のすべてがわたしに感じられる。思いが重なっていく。意識が光に埋もれる。

理解を超えた愛だった。妻がわたしになり、わたしが妻になった。いや、互いが互いの思いになった。強く強く結びついていく。わたしたちに微かな隔たりも消えた。愛が光る。その光が大きくなる。自らへの愛が揺るぎないものとなっていく。そう、この形だ。我々すべての光はこの形で結ばれていた。何をも貫く愛で結ばれていた。

「ウオー! ウオー!」

光が瓶から次々に放たれる。光が放射状に天に駆ける。所々に稲妻が走る。雷光がわたしを射る。

「ウオー! ウオー!」

数々の思い出がわたしに押し寄せた。星への別れをわたしなりに巡った。

「ウオー! ウオー!」

それぞれのわたしが、再びわたしに戻る。太古の戦士…。機織る女…。小舟の漁師…。青い目のエンジニア…。そして、毛むくじゃらのわたし…。複数のわたしが、今のわたしに感じられた。それらが、わたしの中を自由に駆け巡る。

友もいた。駱駝じゃない。あの頃の友だ。家族だ。愛する人たちだ。みんな、笑顔を見せている。闇の流れを飛んだ時にも、みんな顔を出してくれた。大好きだった妹もいる。あの貝殻をわたしに見せている。

「釣りに行こうね…。もう、辛い冬は来ないよ。きっと…」

妻が微笑んだ。妹は妻の光の中にもいた。愛する人たちは、妻の光の中にも微笑んでいた。

シリウスが後ろへ遠ざかる。風が増していた。次々に、稲妻がわたしに戻る。わたしの光が一気に膨張していく。背に翼が生えていく。純白な翼だ。妻の思いが押し寄せる。

「翼を羽ばたかせよう…。吹く風に、あたしたちの風を見せよう…」

背の翼が大きくなる。銀河の流れが止まる。光がその向こうを隠す。

「銀河を越えよう…」

銀河の向こうの光がわたしたちを手招きしている。とうとう、わたしは銀河を越えていく。時の歪みが銀河の流れ着くところに見える。風だけがその歪みを越えてくる。

「さあ、飛ぶんだ…」

翼を動かした。風が起こった。蛍の光が舞った。

「星よ、さようなら…」

蛍が駱駝の方へ帰っていく。わたしに数知れずの涼しい笑顔を残し、静かに去っていく。

「ありがとう…」

わたしは鳥になった。翼が次々に風を創る。虹が幾本もその風に駆ける。オーロラが眼下の銀河を覆っていく。流星群がそれへ落ちていく。

「ウオー! ウオー!」

銀河を越えた。時の歪みをわたしたちは通り抜けた。

風が一瞬にして止んだ。わたしたちは静寂に包まれた。一度、振り返った。時の歪みの向こう側を見た。駱駝や蛍が気になった。

微かな光の揺れの中に蛍たちが見えた。駱駝の背に楽しそうに戯れていた。わたしは微笑んだ。駱駝がわたしの方をちらっと見る。

「ありがとう…」

友たちに、もう一度礼を言った。しかし、わたしの駱駝はもうこちらを見なかった。妻の駱駝に、ひつこいほど接吻を試みていた。涎をみっともなく垂らし目が虚ろだ。激しいブルブルが、今にも聞こえてきそうだ。わたしの笑みが自然と拡がった。

「ありがとう…」

もう、振り返らなかった。わたしは銀河を越えた。恍惚にわたしが揺れた。

光だけの世界だった。時も顔を隠している。わたしは光に抱かれた。光を抱いた。すべての光を果てしない翼で抱いた。暖かかった。光に溶けた。妻の囁きが聞こえた。

「あなた、愛している…。すべてを愛している…」

それは、自らの心の底から漏れた歌声だった。そして、すべての光からのわたしへの歌声だった。

「すべてを愛している…」

そのまま眠りに落ちていった。すべての光に抱かれた安らぎの眠りだった。目覚めた時が新たなる旅立ちだ。未来の夢を見よう…。わたしはそう思っていた。

意識にちらっと青い星が浮かんだ。それは、どこまでも透明に輝いていた。美しかった。星の未来への思いが見えてきそうだった。白い風が、星をどこかへ誘っているようだった。

「あの駱駝をよろしく…」

あの友は青い星へ帰ると思った。なぜか、そう思った。わたしは眠りに落ちた。母の温もりを思い出した。それは、わたしのすぐ側にあった。毛むくじゃらの母がいた。乳をわたしにくれた。少し熱すぎた。

 

 

(終わり)