マーマ

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マーマ

(1)

マレーネ・デートリッヒに針を落としたとき、その男は入ってきた。
「寒いね…」
年のころは二十台半ば、紺のブレザーに蔦の葉模様のエンブレム。白いボタンダウンにアスコットタイ。あたしの店には珍しいアイビー青年だ。
「ジンを…」
ロック? フィズ? 聞くのはやめた。デートリッヒが静かに始まった。
「デートリッヒか…」
男は目を細めた。ジンのストレートを軽く舐めた。
「神の存在を信じる?」
唐突に青年が言った。あたしと目が合った。眼球の底に、遥かな宇宙が広がっている。
「信じない…」
あたしは即座に答えた。神などいない。もし、いたとしても、あたしには用事がない。
「それじゃ、未来は信じる?」
青年の遥かな宇宙が少し色を変えた。眼球の銀河が更に遠くなった。
「……」
あたしには答えられなかった。未来…。どうでもいいことだった。青年とあたしの目が逸れた。
青年はしばらく黙ったままだった。目の前のジンをぼんやりと眺め、デートリッヒに聞き入っている。あたしはタバコを吹かした。メンソールが青年の思考に邪魔になれと思った。
「未来はあるよ」
青年が目を上げた。その瞬間、すっーと、青年の表情に光が上った。
「連れて行ってあげようか」
青年に不思議な安心感があった。あたしは信じた。この青年の未来を。
「いつ…」
青年は小さな笑みを作った。不思議だった。あたしはそれに惹かれた。あたしの未来。そんなものが脳裏に小さく影を持ち始めていた。
「四日後」
なぜ、四日なのかは分からない。あたしは頷いた。再び、二人の間に沈黙が流れた。
知らぬ間に、デートリッヒが終わっていた。あたしはあたしの中に沈んだ。いつもとは異なる不思議な安定が、そこにはあった。居心地が良かった。
「……」
どれくらいあたしの中で揺れただろうか、安定がすっかり落ち着いたとき、言葉ではないものが、あたしの中のあたしをそっと誘った。
「未来…」
光や闇が入り乱れる。虹が銀河を越えていく。無数の光の帯が幻想を生む。それは、青年の瞳の中に見えた。青年の瞳があたしを見ている。ああ、あたしは、青年のような瞳は持っていない。あたしは目を逸らした。光が消えていった。
「では、四日後に…」
それは、一瞬のことだった。青年が立ち上がった。カウンターのジンはいつの間にか空になっていた。

(2)

青年の瞳の奥の未来を信じた。少しだけあたしが変わっていた。あの光をもう一度見たいと思っていた。

次の日もデートリッヒに針を落とした瞬間だった。
「寒いね…」
昨日の青年の声だった。しかし、昨日の青年ではなかった。
「バーボンを」
昨日の青年と雰囲気は似ていたが、そのいでたちが全く違っていた。
あたしがタイムスリップしていく。母から聞いていた大正ノスタルジーが、何故かあたしにも感じられる。未来を信じていた時代の躍動、未来への心意気、未来を目指す輝き、そして、未来を信じる潔さ、それらが、父の一徹さとクロスしていく。男は父に似ていた。
「オンザロックで」
立派な口髭だった。地位のある人なのか。男は軍服を纏っていた。襟にいくつか勲章がぶら下がっている。あたしの背筋が思わず伸びた。母はいつもこのような思いだったのだろうか。男の威厳というものをあたしは始めて知った。
「デートリッヒか…」
声は、やっぱり昨日の青年の声だ。このあたしが間違えるはずがない。あたしは昨日に続き不思議に落ちていく。
「昨日は、私がお世話になった。例を言う」
私がお世話に…。あたしは思考を回した。未来へ行くには、未来を信じる必要がある…。どういうわけか、この時そう思った。
「昨日の男は、私の生まれ変わりだ」
フルスピードで考えが巡る。生まれ変わり、転生。未来へ行くには、未来を信じる必要がある…。
「私たちは、いや、私から言わせれば、私なのだけれども…」
立派な口髭が何度も上下する。大日本帝国の男子の歯切れが悪い。
「その、つまり…」
男が目を上げた。あたしはそれを瞬間に覗き込んだ。
「遥かな宇宙」
あたしは言った。紳士の眼球の奥に、昨日の青年と同じ遥かな銀河が見えた。
「私はひとつになろうしている。未来と過去が結びつく…」
恐ろしく不思議なことだったが、その時、あたしにはこの男の言っていることが、完全に理解できていた。前世、前々世、そして、前々々世、前々々々世の男が、未来のどこかですべてひとつになろうとしている。未来と過去が結びつく…。
あたしがあたしの中に落ちていた。そこに、昨日と同じ銀河があった。男の眼球の底に、それは激しく揺れていた。光が光を抱き、光が光を跳ね返す。輝きがきらめきを引き込んでいく。影が光に追い出されていく。あたしの中にどこまでも銀河が広がっていく。
「では、三日後に」
今夜も、それは一瞬のことだった。男はバーボンを一気に空けると席を立った。男だけがセピア色に輝いていた。

(3)

あたしが更に変わっていく。夢に銀河を彷徨った。母と父の手にぶら下がった。

ようやく客が引けたときだった。男が入ってきたのは気付かなかった。
「少し、邪魔する…」
黒づくめの男だった。頭から足まで頭巾とマントで隠していた。
「酒を…」
同じ声だった。
男はゆっくりとカウンターの席に着いた。頭巾の中の両眼が少し険しいが、あの同じ銀河が見える。あたしは男に笑顔を作った。男に戸惑いが揺れている。
「寒いね…」
あたしの言葉に、男は小さく頷いた。なんとなくの仕草が、この男も似ている。
「…」
無口だった。男は目を落とし、カウンターの一部分を凝視している。あたしは、男に北国の逸品を冷で出した、静かな沈黙だけが店に続いた。
「うまい酒だ…」
恐る恐る男があたしを見た。その時、あの不思議が三夜続けて起きた。
「ああ」
あたしが何かに目覚めていく。懐かしい。何だか凄く懐かしい。
「あああ…」
思わず声を出していた。懐かしい。凄く懐かしい。ああ、悲しいほど懐かしい。
「ああああ…」
あたしはこの男の時代を生きている。この男と同じ風を受けた。そう、男とは同じ村にいた。
「ああああ…」
馬車があたしの側を過ぎる。モノクロの銀河に風が吹く。物売りが近づいてくる。光が闇に形を持つ。
「オギャー オギャー!」
どこかで子が泣く。銀河が走る。影を残していく。色を消していく。
「ヂヂヂヂ!」
蝉が鳴いている。夕立が来そうだ。砂埃が光を隠していく。
平和だった。少なくとも、あたしが生きた時代は平和だった。あたしが生きた村は平和だった。
「オギャー オギャー!」
そういえば、お春さんところがお目出度たった。元気な男の子って言っていた。
夕立だ。光をしまわなきゃ…。色が死んでしまう。色が死んでしまう。
「光を仕舞わなきゃ…」
あたしは男の銀河を鷲づかみにした。影がいっせいに飛び立った。
「ヂヂヂヂ…」
もう夏も終わりね…。蝉がそういった。あたしもそう思った。
「では、二日後に…」
あたしは気が付かなかった。男が出て行ったのを。あたしはあたしの中にずっといたかった。
「夏が終わったよ…」
蝉がいつまでも鳴いていた。訳もなく悲しかった。

(4)

あたしの未来が形を持ち始めていた。男の瞳に見えた銀河が、あたしを激しく誘っていた。夢の中にも蝉が鳴いていた。未来へ向かって大声で叫んでいた。

あたしはずっと待った。その日は暇だった。あたしは未来に揺れ続けていた。あたしは店の明かりを消した。その時に、そのものは現れた。あたしたちのルーツがそこにあった。
「ウー、ウー…」
あたしの魂が破裂した。毛むくじゃらの身体から、そのものはオーラを発していた。あたしたちの祖先という自負を輝きにしかと見せていた。
「ウー、ウー…」
あたしはその瞳を覗き込んだ。毛むくじゃらが、銀河の彼方からあたしを誘っていた。
「ウー、ウー…」
あたしに望んでいた。そのものは強く強くあたしに望んでいた。
「ああ…」
感動が全身全霊を駆け抜ける。大いなる母は、大いなる子の神だったのだ。大いなる子は、大いなる母の神だったのだ。
最初の男に言った。神などいない。でも、それが全くの間違いだったことを知った。あたしはあたしの祖先を胸に抱いた。そう、愛こそが神だった。
「ウー、ウー…」
大いなる子は暖かかった。あたしはその子に乳を与えた。子が望んでいるものはそれだった。
「ウー、ウー…」
子が目を剥いた。子のオーラが大きくなる。子があたしのお腹をけった。破裂したあたしの魂を何度も何度も蹴った。
「マーマ…」
その子の言葉で、それは神を現すものだった。大いなる子は自らの神の乳を飲み続けた。呑み続けることによって自らも神になることを知っていた。
「マーマ…」
だらしなく乳が子の口から零れる。でも、あたしには無限の乳がある。無限の愛がある。
「マーマ…」
時が止まっていた。あたしは乳を与え続けた。涙が止めどなく流れ、魂のピースが子のオーラと共に銀河へ向かう。
時が止まっていた。子のあたしへの思いが嬉しかった。切なかった。悲しかった。
「マーマ…」

「では、明日…」
それは、子の声ではなかった。あの青年の声だった。

(5)

いよいよ、その日が来た。あたしはそれへの準備は出来ていた。あたしは未来を信じていた。

店を開けた瞬間だった。昨夜の子があたしに飛びついてきた。全身から喜びの輝きがキラキラと光る。あたしはこの子を抱いた。あたしの瞳から止めどなく涙が零れた。子が乳を求める。足をばたつかせ、腕であたしを叩く。
「マーマ」
子があたしを呼んだ。子と目が合った。
「マーマ…」
子は笑っていた。どこまでも煌いた光が瞳の揺れている。あたしは強く強く子を抱いた。あたしの中の愛のすべてが子に向かう。激しいほどに魂が熱を帯び、意識のあらゆる襞を刺激する。
「コーヨ…」
それは言葉ではなかった。あたしの熱さが口から溢れた。
「コーヨ…」
子の瞳に銀河が広がっていく。煌きの光が生命の喜びを歌っている。
「マーマー…」
光があたしを誘っている。子の銀河から遥かなる風が吹く。大いなる大地の母の香りがする。
「マーマ…」
更に銀河が大きくなる。無数の光が無限にクロスしていく。星がそれぞれの生命を、あたしに見せてくれている。あたしを銀河へ誘ってくれている。未来へおいでと叫んでくれている。
「さあ…」
その声は男の声だった。アイビーの青年があたしの手を取った。口ひげの男があたしの背を押した。マントの男があたしに微笑んだ。あたしはその声に従った。子を抱いたまま、店の扉を開いた。
「……」
扉の外は雪だった。真っ白な雪がゆっくりと舞っていた。
「さあ」
マントの男が風に乗る。舞う雪の中へ風を創った。あたしの子がチラッとそれを見た。
「マーマ…」
子も風を創った。マントの男と同じ風を。
「マーマ…」
子の創った風に乗った。舞う雪を掻き分け、子が教えてくれた銀河へ向かう。
「未来へ…」
青年が雪を一粒手のひらに乗せた。きらきらとそれは色を持ち始める。
「これが僕たちの未来…」
雪が輝きを大きくする。純白が透明に透き通っていく。あたしはそれを覗き込んだ。男の言ったことの理解が進む。そう、これがあたしたちの未来…。
雪が更なる風を創った。純白な帆をその風に運ぶ。雪は生命を持っていた。いや、銀河の生命たちが、あたしたちに雪を見せてくれていたのだ。未来への旅立ちを美しく彩ってくれたのだ。自由という舞を見せてくれたのだ。
舞っていた雪が順に姿を変えていく。それぞれに風を創っていく。それぞれの銀河を越えていく。あたしはひとつの雪を追った。子の風がその雪へ吹く。
風が懐かしい。あたしの魂が開放されていく。
「あたしの未来…」
雪へ追いついた。雪はあたしに振り返った。
「……」
あたしだった。それはあたしの前世だった。
「ありがとう…」
その言葉が一番相応しかった。あたしはあたしの前世と溶け合った。あたしの愛が二倍になった。
「ありがとう…」
理解など遥かに超えていた。あたしは過去と未来に揺れた。あたしの愛が更に膨れていく。
「マーマ…」
時が止まる。あたしの変化が止まる時の中を巡る。子への愛を大きくした。あたしへの愛を大きくした。
その時、もう一粒、雪があたしの頬をくすぐった。それは、あたしへの愛を大きくしたからだった。更に、あたしの愛が大きくなる。ふたつの目前世のあたしがそこにいた。これであたしの愛が3倍になった。
「ありがとう…」
と、思ったら、まだ次があった。雪が頬をくすぐる。あたしの愛が4倍になった。
あたしはいくつもの時代を生きた。流転の渦を超えてきた。それぞれの時代の、それぞれのあたしが今ひとつになろうとしている。あたしは揺れた。子への愛が破裂していく。あたしへの愛が銀河へ零れていく。
それぞれの時代、あたしは母だった。子だった。そして、愛だった。あたしの中にそのすべてが渦巻いていく。すべてが喜びに満ち溢れ、すべてが生命を謳歌し、すべてが未来への帆を高くする。すべての子を胸に抱いた。すべての母に乳をせがんだ。すべての愛に愛を抱いた。愛をせがんだ。あたしは銀河を越えていく。あなたと…。そう、そうなの、あたしのあなたと…。
そう、それぞれのあたしを愛してくれたあなた。そう、あなたと一緒に…。
「あなた…」
アイビーの青年があたしを抱いた。髭の紳士が少し照れた。マントの男が微笑んだ。そして、腕の中の子があたしのお腹をけった。
そう、それぞれの時代、あたしはあなたと生きた。時代を超え、世紀を越え、あたしとあなたは愛し合った。強い強い絆で結びついていた。太い太い糸で結び合っていた。大きな大きな愛でひとつになっていた。
「あなたとあたしの未来へ…」
あたしたちの隔たりがなくなっていく。すべてのあたしがすべてのあなたと結びついていく。それぞれの時代のあなたとあたしの銀河が目の前に広がっていく。
アイビーの青年と恋した。青年は優しかった。あたしを大切にしてくれた。
髭の男を愛した。幸せだった。戦争が憎かった。
マントの男を愛した。幸せだった。平和だった。
そして、毛むくじゃらの子を産んだ。子は無垢だった。何にも勝るものだった。
「ありがとう、あなた…」
あたしの愛が10倍にも20倍にも膨れた。風が少し強くなった。
「さあ…」
あなたがあたしの手を引いてくれている。いつでもあなたは優しいのね…。
「大好きよ、あなた…」
あなたがあたしを強く抱いた。銀河の向こうに未来が見えた。
「マーマ」
あたしは子に乳を与えた。しかし、あなたがそれを奪った。
「マーマー…」
子が笑った。あたしも笑った。雪はもうやんでいた。

マーマ     完